新国立劇場、2017年1月14日17時半。
夜、東京タワーの周辺は混乱を極めていた。警察官と関係者、野次馬の間で飛び交う怒号、サーチライト。小学生の真鈴(高畑充希)と悟(門脇麦)は地上333メートル、東京タワーの最上部で幸せをかみしめながら、輝く夜景を眺めている。「わたしたち けっこん します」ふたりは空中へと飛び出し…
原作/楳図かずお、脚本/谷賢一、音楽/トクマルシューゴ、阿部海太郎、歌詞/青葉市子、演出協力/白井晃、演出・振付/フィリップ・ドゥフクレ。1982年に連載された同名漫画のミュージカル化。全2幕。
好評を聞いてチケットを取ってみました。気にはなっていたので…で、予習として原作漫画を読みました。これがいけなかったのかもしれません…
私は弟とともに週刊少年誌四誌を読んで育った子供でしたが、楳図作品の当時の記憶はなく(飛ばしていたのかも、すみません…)、またホラーは苦手だったのでそのあたりの作品群も手を出したことはなく、大人になってからコミックスでいくつかの作品をまとめて読んで、ことに『漂流教室』と『わたしは真悟』は傑作だな、と思った記憶があったのでした。なので今回再読して、改めて、ワケわかんないんだけどとにかくすごい、というのを再認識して、で、舞台に臨んでしまったのです。
でもこれは多分、原作漫画を知らない観客の方が楽しめたのではないかなー。実際今では文庫でしか手に入らないし、そこまで広く読まれている作品では残念ながらないと思うので、そういう意味では幸福な舞台だったのかもしれません。舞台に感動した方はゼヒ原作漫画も読んでみてくださいませ。
漫画を知っていると、まず冒頭が「ここから始めちゃうんだ!?」となっちゃいますし、なんか舞台で実際の人間が演じてみせることで、原作漫画の世界のあのワケわからないけどとにかくすごいという部分が矮小化されて固着しちゃう、限定されちゃう気がしました。もっと無限の夢想みたいだったものが、固形化してしまうというか…ロボットの動きとかはいかにもそれっぽくて、具現化してくれてワクワクする!みたいな部分もあったのですが…
でも舞台を先に観ていたら、役者さんがちゃんと子供になっていることとか、真悟(成河)の在り方とかが、本当に夢のような魔法のような、不思議でロマンチックでドキドキワクワクするものに見えて、舞台の魔法にかかれたと思うのです。その方が幸せな観劇だと思いました。
でも原作漫画はもっともっと深くて豊かで、そして暴力的にハイスピードで、そしてけっこうドライなんですよね。舞台ではそのあたりはけっこう感傷的になっている気がして、そこがまた気になりました。特に舞台のラストシーンは、それはそれはとても美しかったけれど、でも原作のラストってそんなじゃない。「そしてアイだけが残った」っていうのも、単に本当にコンクリートに「アイ」って文字が書き残されたってだけのようでもあり、愛が残ったということではないかもしれない、って感じがいいんだと思うんですよね。だって悟も真鈴もきっとこのあとただのつまらない大人になってしまうんですよ。彼らの子供は終わってしまったのだから。奇跡は誰にでも起きる、でも起きたことは誰にも気づかれない、というエピグラフは、気づかれないならなかったのと同じことという読み方もできるわけで、彼らが生み出した奇跡のようなロボット、その自我、その愛もすべては幻で存在しないもの、とも読み取れるような作品なんだと思うんですよ原作はね私はね。
まあ、私が原作の好きな部分が再現されていないからというだけでこの舞台を責めても仕方ないのだけれど…でも、なので私には、この作品は舞台作家の原作漫画への壮大なオマージュに見えてしまいました。ファンとかオタクって、何かの作品を好きになったらまずそのキャラを自分の絵柄で描いてみたりするじゃないですか。最近だと丸絵とか。その舞台版、に、見えました。
でも役者はみんな素晴らしかったし、舞踊も音楽も素晴らしくて、確かにあの世界をこう表現するってのはアリだな、おもしろいなと、そこは私も感動はしたのです。でもだからこそ、「え? これだけ?」みたいにも感じてしまった、というか…ま、なんでもオリジナルが一番いいに決まっていて、二次展開はあくまで二次にすぎないものではあるんですけれどね。でも何かひとつ、「こうキタか!」と震えるようなものがあれば、また違ったのかもしれません。
それにしても原作の、AIの自我云々みたいな部分はやっと時代が追い付いてきたんですねえ。なので今こそ再読されるべき漫画なのかもしれません。そしてだからこそ今、舞台化される意味はあったのかもしれません。
でも原作漫画は全体としてはもっと、人間の機械に対する根源的な恐怖やそれと表裏一体のあこがれ、その前で出会ってしまったまだ男女とも言わないような年端のいかないふたりの子供、大人に引き裂かれそうになるからこそ一緒にしたい結婚したい子供を作ろうとなるふたりのパワー、その衝動と情熱が生み出す奇跡や幻想が世界を作り変える魔法を描いていて、そして収束してしまう、なんともすごいものなのですよ。なのでAIやその自我といった面にやや特化して見えたこの舞台だけでなく、この漫画全体そのものを、読んで味わってもらいたいなと思うのでした。
あ、そうそう、でもだから悟に楳図先生ご愛用で有名な赤白ボーダーのお衣装を着せたのは、とてもよかったのではないかと思います。悟は別に楳図先生ご本人を反映するキャラクターでもなんでもないんだけれど、楳図作品の主人公の記号として、また「男の子」の記号として、すごく有効だったと思いました。
夜、東京タワーの周辺は混乱を極めていた。警察官と関係者、野次馬の間で飛び交う怒号、サーチライト。小学生の真鈴(高畑充希)と悟(門脇麦)は地上333メートル、東京タワーの最上部で幸せをかみしめながら、輝く夜景を眺めている。「わたしたち けっこん します」ふたりは空中へと飛び出し…
原作/楳図かずお、脚本/谷賢一、音楽/トクマルシューゴ、阿部海太郎、歌詞/青葉市子、演出協力/白井晃、演出・振付/フィリップ・ドゥフクレ。1982年に連載された同名漫画のミュージカル化。全2幕。
好評を聞いてチケットを取ってみました。気にはなっていたので…で、予習として原作漫画を読みました。これがいけなかったのかもしれません…
私は弟とともに週刊少年誌四誌を読んで育った子供でしたが、楳図作品の当時の記憶はなく(飛ばしていたのかも、すみません…)、またホラーは苦手だったのでそのあたりの作品群も手を出したことはなく、大人になってからコミックスでいくつかの作品をまとめて読んで、ことに『漂流教室』と『わたしは真悟』は傑作だな、と思った記憶があったのでした。なので今回再読して、改めて、ワケわかんないんだけどとにかくすごい、というのを再認識して、で、舞台に臨んでしまったのです。
でもこれは多分、原作漫画を知らない観客の方が楽しめたのではないかなー。実際今では文庫でしか手に入らないし、そこまで広く読まれている作品では残念ながらないと思うので、そういう意味では幸福な舞台だったのかもしれません。舞台に感動した方はゼヒ原作漫画も読んでみてくださいませ。
漫画を知っていると、まず冒頭が「ここから始めちゃうんだ!?」となっちゃいますし、なんか舞台で実際の人間が演じてみせることで、原作漫画の世界のあのワケわからないけどとにかくすごいという部分が矮小化されて固着しちゃう、限定されちゃう気がしました。もっと無限の夢想みたいだったものが、固形化してしまうというか…ロボットの動きとかはいかにもそれっぽくて、具現化してくれてワクワクする!みたいな部分もあったのですが…
でも舞台を先に観ていたら、役者さんがちゃんと子供になっていることとか、真悟(成河)の在り方とかが、本当に夢のような魔法のような、不思議でロマンチックでドキドキワクワクするものに見えて、舞台の魔法にかかれたと思うのです。その方が幸せな観劇だと思いました。
でも原作漫画はもっともっと深くて豊かで、そして暴力的にハイスピードで、そしてけっこうドライなんですよね。舞台ではそのあたりはけっこう感傷的になっている気がして、そこがまた気になりました。特に舞台のラストシーンは、それはそれはとても美しかったけれど、でも原作のラストってそんなじゃない。「そしてアイだけが残った」っていうのも、単に本当にコンクリートに「アイ」って文字が書き残されたってだけのようでもあり、愛が残ったということではないかもしれない、って感じがいいんだと思うんですよね。だって悟も真鈴もきっとこのあとただのつまらない大人になってしまうんですよ。彼らの子供は終わってしまったのだから。奇跡は誰にでも起きる、でも起きたことは誰にも気づかれない、というエピグラフは、気づかれないならなかったのと同じことという読み方もできるわけで、彼らが生み出した奇跡のようなロボット、その自我、その愛もすべては幻で存在しないもの、とも読み取れるような作品なんだと思うんですよ原作はね私はね。
まあ、私が原作の好きな部分が再現されていないからというだけでこの舞台を責めても仕方ないのだけれど…でも、なので私には、この作品は舞台作家の原作漫画への壮大なオマージュに見えてしまいました。ファンとかオタクって、何かの作品を好きになったらまずそのキャラを自分の絵柄で描いてみたりするじゃないですか。最近だと丸絵とか。その舞台版、に、見えました。
でも役者はみんな素晴らしかったし、舞踊も音楽も素晴らしくて、確かにあの世界をこう表現するってのはアリだな、おもしろいなと、そこは私も感動はしたのです。でもだからこそ、「え? これだけ?」みたいにも感じてしまった、というか…ま、なんでもオリジナルが一番いいに決まっていて、二次展開はあくまで二次にすぎないものではあるんですけれどね。でも何かひとつ、「こうキタか!」と震えるようなものがあれば、また違ったのかもしれません。
それにしても原作の、AIの自我云々みたいな部分はやっと時代が追い付いてきたんですねえ。なので今こそ再読されるべき漫画なのかもしれません。そしてだからこそ今、舞台化される意味はあったのかもしれません。
でも原作漫画は全体としてはもっと、人間の機械に対する根源的な恐怖やそれと表裏一体のあこがれ、その前で出会ってしまったまだ男女とも言わないような年端のいかないふたりの子供、大人に引き裂かれそうになるからこそ一緒にしたい結婚したい子供を作ろうとなるふたりのパワー、その衝動と情熱が生み出す奇跡や幻想が世界を作り変える魔法を描いていて、そして収束してしまう、なんともすごいものなのですよ。なのでAIやその自我といった面にやや特化して見えたこの舞台だけでなく、この漫画全体そのものを、読んで味わってもらいたいなと思うのでした。
あ、そうそう、でもだから悟に楳図先生ご愛用で有名な赤白ボーダーのお衣装を着せたのは、とてもよかったのではないかと思います。悟は別に楳図先生ご本人を反映するキャラクターでもなんでもないんだけれど、楳図作品の主人公の記号として、また「男の子」の記号として、すごく有効だったと思いました。
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