駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

三原順『はみだしっ子』

2021年07月04日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名ま行
 白泉社花とゆめコミックス全13巻。

『ロング アゴー』まで含めて全14巻、ですね。ここに入っている『オクトパス・ガーデン』という作品のものすごさは私なんぞには論評できません。
 私はもしかしたら作品ラストのマックスくらいかもう少し幼いころにこの作品にめぐり会ったのでしょうか。これまたすべての台詞が諳んじられるような、魂に刻み込まれた一作です。
 以前は、子供なら誰しも家族や家庭にちょっとの不満を持つことはあって、これはそんな家を出て自由に生きられたらな、みたいなドリームを結晶化させたような設定の漫画なんだなとか考えていたかと思うのですが、四十年経って改めて再読してみるに、世の中はこの作品が描かれたときより残念ながら悪くなっていて、家族や家庭に恵まれずやむなく家を離れて育つ子供は増えていて、そしてそういう子供たちはこうした物語を娯楽で読むことなどできないままに育つのだろう…と思うようになり、胸ふたがれる思いです。
 もちろんこの作品はドリームだけの物語では全然ないし、最終的には家族とか家庭とかよりももっと重いものを巡るお話になるんですけれどね…ラストシーンが印象的な作品、というものはもちろんいくつもありますが、この作品も、ラストシーンというか終わり方というかが、とても印象的です。未だ解釈しきれないような、けれど他にどうすればよかったとかどうあるべきだったとかも全然言えないような、不思議な終わり方である、とも言えるかと思います。究極のオープンエンド、というのともまた違うのかもしれませんが…
 拳銃以外は事件の証拠が何ひとつ残っていなくて、事件の証人もすべて死んでしまって、そもそも犯人が未成年というか子供、幼児だし、そもそも事件としても認識されていない。それでも失われた命がある、という事実がある。彼は逮捕されていなかっただけでおそらく犯罪者で、近親者にも評判が悪く、その死を悼む者、悲しむ者はほぼ誰もいない。それでも、だからといって死んでいい、殺していいということにはならないし、けれどいろいろなことが重なったあげくとはいえ死なせてしまった、もっと言えば殺してしまったという事実は絶対になくならない。アンジーはマックスのために忘れる、ないし忘れた振りをして口をつぐみ続けることができる気でいる。グレアムもそれはできるんだけれど、それとは別に、誰かが罰を受けなければ、つまり自分がそれを引き受けなければ、という思いから逃れられない。だってキャプテンだから…あるいは、神様というものがよくわからないグレアムが、それでもこの世に人間として生きていくためには、なんらかの因果応報とかルールとか規範とかに従わないではいられないからです。というか従わせてくれないと安心できないのです、彼が。
 グレアムが犯罪の存在をジャックに明かすところで、物語は終わります。ついにジャックを家族と認めて、親と認めて、責任を共有しなんなら大人として肩代わりしてもらうことにしたのだ…とも読める。でも告白の場にはトリスタンのメンバーもいて、単に家族だから打ち明けたというよりはとにかく公にすることがグレアムにとって大事だったのだ、というようにも読める。とにかくお話はそこで終わっていて、そこからはまた別のお話でここで語ることではない、というような切り上げ方をしてそのままトートツにラストシーンに突入するわけです。ではこのお話は結局、何を描いたものだったのでしょうか。
 作者は最初からこのモチーフ、この流れを考えていたのかなあ? それとも単に子供4人の共同生活を連作していくだけのつもりが、ひょんなことからストーリーがそう流れてしまい…ということだったのかなあ? 少女漫画が描くには、あるいは対象読者が年少の、エンタメとしての漫画が描くには、あまりにも重いモチーフです。もちろん全体にとても哲学的な、重厚な空気がある作品ではあるのですがね。
 結局のところ、やってしまったことは取り返しがつかないし、でもそれほどまでに取り返しがつかないことってとてもひとりで背負えるものではないので、親しい者同士で共有して、分け合って背負っていくしかないんだよ…ということがテーマ…なのかなあ? そういう意味での連帯、を描いた作品なのかもしれません。家族がテーマ、みたいなことよりは…
 そういう意味では、少なくともグレアムとアンジーはもう親を必要とする年齢を超えてしまいました。グレアムの両親や叔父叔母、アンジーの母親は全然理想的な親ではなかったけれど、子供は親を選べないし、それしか与えられなかったらそれでやっていくしかない。そして実際、それでなんとかやってきて、もうあとはなしですむようになってしまった。サーニンはしっかりしているタイプだけれどやっぱりまだいろんな意味で幼いので親が現れてよかったろうし、マックスは言わずもがなでしょう。そしてそれでグレアムやアンジーの肩の荷が下りるところも絶対にある。だからジャックやバムと家族になったことが無駄だったとということは絶対にない。けれど、少なくともグレアムとアンジーはなければないでなんとかしただろう、ということです。なのでこれはそういう「家族」の物語ではないんだと思う。もっと重い、深い、人間の…あるいは、社会の、物語なんだと思います。
 グレアムは真面目だから、まず自分がちゃんとあろうとし、自分がちゃんとできるなら他人にもできるはずだしそう求めていいだろう、そして世の中全部がちゃんとするのだ…という形で、世の中を信じたいんだろうし、逆に言えばそういう形でしか世の中を、人間を、何より自分を信じられない。でも、そうそう全部をちゃんとはできないよ…と、やっと、受け入れることにするまでのお話、なのかもしれません。それでもいいんだよ、大丈夫だよ、という、お話。ある意味で、クークーがサーニンと出会って指を回さなくてもいいようになった話。グレアムは妥協と呼びたがるかもしれないけれど、世界を受け入れる話。そんな世界は嫌でも、それでもつきあって生きていかなくちゃならない、という話。
 …どうだろう、わからないな。現時点で思うところはそんなことだけれど、またしばらくして読んだら違うことを思うかもしれませんし、一生わからないままかもしれません。でも好きな、大切な一作です。
 キャラクターとしてはやはりグレアム派…かなあ。アンジーも愛しいしサーニンが好きですけどね。この4人のバランスはとてもよくて、年長組と年少組で別れることもあるし、アンジーとマックスの見目よい組に対してグレアムとサーニンの地味組とか、グレアムに甘えるマックスを見守るアンジーとサーニンの組とかになることもある。4人が作る四角形と対角線に全部、いろんな関係性があるんですよね。そこがいい、すごい。
 ここから先の4人は、もう『はみだしっ子』の4人ではなくなってしまうので、考えても詮ないことなのだけれど、それでも彼らはこの先どんな大人になったのかしらん、とか思ったり、します。アンジー、何になったの? 意外とちゃんとお医者になったのかもしれませんよね。でもマックスが宇宙飛行士になるに値する未来がこの地球に来ていない気がすることは、残念かつ申し訳ない思いがします。私はもう大人で、今の社会に責任があるのですから…



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