駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『長崎しぐれ坂/カルーセル輪舞曲』

2017年05月06日 | 観劇記/タイトルな行
 博多座、2017年5月5日11時、15時半。

 江戸時代末期。寛永のころより鎖国を守る徳川政権において、長崎だけは出島にオランダ屋敷、十善寺村に唐人屋敷を構え、唯一外国に交易の窓を開いていた。中でも広大な敷地を有する唐人屋敷は、名目上は長崎奉行所の取り締まり下に置かれていたが、実際は「異国」としてみなされていたため、どんな兇状持ちが中にいようとも奉行所は手出しのできない治外法権の地であった。この唐人屋敷で、かつて江戸・神田明神の氏子であった伊佐次(轟悠)、卯之助(珠城りょう)、おしま(愛希れいか)の三人が再会を果たす。だが二十年に及ぶ歳月は三人の境遇を大きく変えていた。伊佐次は江戸の大名屋敷を片っ端から荒らしまわって幾人をも殺めた末に唐人屋敷に逃げ込み、今は唐人たちに匿われて暮らしている。卯之助は江戸の北町奉行の岡っ引きだったが、幼馴染の伊佐次を自らの手で捕らえようと長崎に辿り着き、長崎奉行所の下っ端として唐人屋敷に日参している。そしておしまは家の没落と共に泉州堺の芸者に身を落とし、大商人である旦那に連れられて長崎へやってきていた…
 脚色・演出/植田紳爾、作曲・編曲・録音音楽指揮/吉田優子。榎本滋民『江戸無宿』を原作にしたミュージカル・ロマン、2005年に星組で初演されたものの再演。

 原作(小説? 戯曲?)は未読、初演も未見、スカステ放送でも観たことがありませんでした。演目発表時もはかばかしい評判を聞かなかったので、どんよりしながらも出かけてきました。
 博多まで行くんだしせっかくだからダブル、と二回観ましたが、結果的には良かったかな。初見はこちらが、誰がどの役かとかどこにいるかとかいろいろ観るのに追われてしまって、そのせいもあって訛りと時代もの特有の用語が氾濫する台詞がほぼほぼ聞き取れず、なんだか話がよくわからないままに終わってしまった気がしたので。わかって観る二度目はかなり台詞が脳に届き、それでやっと話がわかって、そしてだからこそ問題点もくっきりわかりました。
 伝統を大事に引き継いでいくことは大切なことだとは思います。でもじき五十になろうとする私ですら、普通の人より歴史や物語に多く触れいろいろ知っているつもりのおたくな私ですら、理解できないこと、想像できないことがありすぎる話でした。そこをもっと丁寧にやってくれていたら、今でも泣けるし共感できるし、さらに未来へ残していくべき作品になったかと思います。でも現状、無理やろ。みんなそんな辛抱強くないと思うよ残念ながら…
 昔は、例えば戦後すぐとか?私の親が子供だった頃の、まだまだ荒れて貧しかった時代くらいなら、幼馴染が再会したらグレていて、でも人柄は変わってないから助けてあげたくて…というドラマは、もっとリアルでありがちなことで、すんなり共感を呼び登場人物たちに感情移入しやすかったのかもしれません。でも今は無理やろ。少なくとも無条件では無理でしょう、少なくとも私は無理です。クールすぎますか? でも別れていた20年の間に何がありどんな事情があって相手が強盗殺人指名手配犯になっているのか、ちょっとくらい説明がないととても庇いたい助けたいと奔走するとか昔の焼けぼっくいに火がついてあっさり恋に落ちちゃうとか、まず絶対にありえないですよ。でもそこになんらかのフォローがあれば、自分が捕らえるふりして官憲の手から守ってやりたいとか何もかもうっちゃって恋の中に飛び込みたいとか思う気持ちは理解できると思います。そして、でもそれがままならない物語のせつなさに泣くこともできると思いますよ。だからそうさせてくださいよ、そこが作家の手腕が問われるところでしょう。
 子供のころ、脚が悪くていじめられている卯之助を女の子ながらおしまが庇い、餓鬼大将っぽい伊佐次がさらにふたりまとめて守ってくれた…それはわかった。で、おしまが八つ、伊佐次と卯之助が十二のときに別れた、それもわかった。何故、どう別れたのかは見せなくてもいいかもしれません。でも、その後三人がそれぞれどう生き、そしてどう再会したかは見せてくださいよ、少しは語ってくださいよ。
 なのに作中で出てくるのは卯之助が引き合わせて伊佐次とおしまが再会する場面だけです。伊佐次と卯之助、卯之助とおしまは再会したあとからしか語られない。伊佐次と卯之助の再会のくだりについては、ラストシーンから考えると特に重要なはずなので、もっと説明をしない意味がわかりません。伊佐次が押し込み強盗なんざ始めるようになったのと卯之助が岡っ引きになったのとはどっちが先なの? 伊佐次は大名ばかりを襲っていたようだけれど、それは例えば富んだ者から金を奪って庶民に撒く鼠小僧的な、義賊っぽい、同情の余地がある犯罪だったの? そうでなくて単なる自分の贅沢や欲望のための犯罪だったなら、いくら幼馴染だろうと庇おうとするなんてむしろ卯之助の人間性の方が疑われませんか? 卯之助は真面目な正義漢で、だからこそ岡っ引きになったっぽいじゃないですか、キャラクターとして、いかにも。そのあたりをどう納得してこの展開に臨めばいいのか、劇作家にはもっとうまく観客をリードする義務があると私は思う。それができていない、だからわかりにくくて話に入れなくてしんどい。役者は涙、涙で熱演しているのに…逆にそこさえクリアできていたら、観客も涙、涙のラストシーンになるのに…
 卯之助とおしまの再会シーンだって見たいですよ、せっかくトップコンビが演じる男女なんだし。昔のことかもしれないけれど卯之助はおしまに一度は惚れていたと言うくらいなんだから、再会のときにだって何かあったに決まっているじゃないですか。なんで描かないの? なんで見せてくれないの? あと、なんで卯之助はあんなにおしまに対して丁寧語でしゃべるの? 年下の女の子なんじゃないの? 下っ端と色芸者ってどっちが社会的階級が上なの? 神田明神の氏子ということは彼らはまあまあ身代のある町人の家の子だったんじゃないかと思いますが、例えばおしまが一番お嬢様だった、とかがあるの? とにかくこのあたりも描いておいてくれないと、卯之助が伊佐次のためにおしまを止めようとするくだり、おしまが泣く泣く旦那と泉州に帰ろうと決心するくだりが全然泣けないんですよ。もったいなさすぎます…
 こんな中途半端な中ではらしゃ(暁千星。よかった!)もぼら(千海華蘭。できる人なのは知っていますがさすがに上手い!)も浮かばれないよ、と私はキャラクターと熱演する中の人のために歯噛みしましたよ…あと舘岡(朝美絢。しかし袴の付け方はあれが正しいのか?)も確かに単なる卑怯に見えかねないキャラになってしまっていて、あーさが気の毒でした。
 さそり(紫門ゆりや。カッコいー!)たちが言う、上海や阿南に行きたいみたいな、あるいは伊佐次やおしまが言う「江戸に帰りたい」みたいな、要するに「ここではないどこかへ行きたい」という、現状の閉塞感に対する焦りや絶望みたいな感覚はむしろ、現代の観客にこそ響く気もするのです。でも、今のままでは、犯罪人のくせして贅沢言ってるんじゃないよケッ、って言われて終わりかねないとも思うのです。だって今や『エリザベート』のシシィですらわがままだよ自業自得だよ何言ってんの?って言われる時代なんですよ? みんな、自分はちゃんとしているのに報われない、周りで楽しそうにしている人は何かズルをしているに決まっている、って思ってさらに弱い者を見つけていじめて鬱憤晴らしをしているような、かなりしんどくつらい世相になっているんですよ。そんな中で芝居をかけることの意味を考えることも大事ですよ植田先生、プログラムのコメントも私はいいこと言ってはいるなとは思いましたけれどね。でも「祭り」だけじゃね…
 そうだ祭りといえば、その祭りのシーンで役者が歌わないで録音の歌を流すのはなんなんだ。踊り手の口を動かさせたくないってことなの? 単純に違和感しかなかったんですけど…
 あと、ラストはやはり、花道でいいからおしまを出すべきだったのではないでしょうか…これ、初演はダンちゃんのサヨナラ公演だったんですよね? なんと不憫な…
 しかし『瑠璃色の刻』でシモンがジャックの腕の中で死んで終わり、みたいなラストじゃなくて自分的にセーフ!とか思っていたらまさかのこっちが、伊佐次が卯之助の腕の中で死ぬパターンで仰天しましたよね…だからBLバディものにしたいならもっとうまく萌えさせてくれっつーの!! おしまを譲ってでも、おしまを止めてでも、卯之助は伊佐次を大事に思っていた。幼馴染というより義兄弟、なんなら菊花の契りを交わした仲でもなんでもいいですよ、そういう情愛はもちろんちゃんと理解できますよそうちゃんと描いてくれればね。でもそうなってないじゃん! リピーターのファンは必死で補完して無理やり感動して泣いてるんだよ、でなきゃ爆睡するしかないの。そんな負担かけさせないでくださいよホント…
 『瑠璃色』ともども、これがやりたいからこう始めてこう進めて…と、逆算ができていないのが問題なんです。特にイントロができていないのはなんなんでしょうね? 客観的な視点さえあればすぐわかることなのに、作家本人には見えないものなんだろうなあ。生徒にそこを求めるのは無理だろうし、やはりプロデューサーがもっと口出していいと思いますよ? でないと、自然とそれができるごくごく一部の作家の作品以外はもう安心して観られません。舞台の出来はいずれ必ずチケットの売れ行きに響きますからね? ファンが支えるにしたって限界ってものはあるんですからね? こんなバブルに浮かれている暇はありません、作家を育てクオリティを上げるシステムを構築しないと先細りするだけですからね? ホントよく考えて?

 レビュー・ロマンは作・演出/稲葉太地。
 『VIVA!FESTA!』で上書きされていたかに思えていた私の脳がちゃんと作動して思い出し、主題歌一拍目からちゃんと手拍子が入れられました(笑)。それでも未だに正確に出せない音がある珠城さんが愛しすぎました(笑)。
 プロローグで私が最も好きだったと言っても過言ではない、銀橋下手で珠城さんとみやちゃんがバトンタッチするくだりが、みやちゃんが抜けてゆりちゃんになっていたのでもう感動! 別箱になると番手が上がるの、いいですよね! 少人数口もさらにコンパクトになるのでほぼほぼ全員が観られて楽しい。レディマンハッタンとかブラックホースとか。
 メキシコでもアミーゴAがゆりちゃんになって、スポットライトの下に出るのは次いでからんちゃん。素晴らしい! 客席降りになって、飛び跳ねる振りがなくなっちゃったのは残念だったかな。ハケ際に言っていた「テ・キエロ」が博多座では「愛してるよ」になっていましたが、私が観た夜の日の回から「愛しとーよ」と博多弁になっていて、正解!と思いました。
 マランドロもみやちゃんだったところがゆりちゃんになっていましたが、ここは私はありちゃんばっか見ちゃったなー。
 みやちゃんのシルクロードだったところはイシちゃんメインのアルハンブラになっていて、旅がブラジルからまたスペインに戻っていつ日本に辿り着くんだとつっこみたかったけどまあ黙っています(笑)。愛馬カバリョはあーさ。この間までりくの牛に夢中でしたが今度はあーさが馬か…! でも騎士のあちばっか見てたかも、すまん。カゲソロはくれあ姉さんと周旺くん、おだちん。美しい。
 インド洋の飛翔の場面がまた良くて、としちゃんのソロがありちゃんになっているんだけどホント聴き惚れましたよね。ありちゃん、歌上手くなったよねー! みやちゃんとのトリデンテはあーさになっていて、退団者ピックアップのパートはたまちゃびになっていて、珠城さんが組替えするあーさの背中を押して送り出す振りもあって…
 ロケットはあちとかれんちゃんとおだちんを見ていたら終わりました。で、博多座は全ツよりずっと大きい階段があるから、黒燕尾の珠城さんの背中に娘役ちゃんたちが羽根扇で作る翼がちゃんとあって感動! 総踊りになってからまゆぽんのポジションに入ったのがあちで感動!
 イシちゃんはあとはパレードに出るだけで、組子の出番を減らすようなことはしていなくて安心しました。珠城さんとお揃いの金と薄紫のスパンは新調かな? 素敵でした。雉羽根つきの大羽根ふたつ、豪華でいいですね。
 でも冬の全ツもこれなのかな、新しいものも観たいけどなー…とか思いながら、帰途につきました。博多は街も食べ物も素晴らしいのでゆっくりしたかったけれど、日帰りで辛抱しました。楽しいGWになりました。



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