駒子の備忘録

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『1789』初日雑感

2015年04月27日 | 日記
 宝塚歌劇月組大劇場公演『1789-バスティーユの恋人たち-』の初日と、二日目マチネを観てきました。
 2012年にフランス・パリで初演された「スペクタキュル」を宝塚ふうに潤色して上演しているのだと思います。くくりは「スペクタクル・ミュージカル」。私はフランス版については映像なども特に観ておらず、こちらのサイトのあらすじだけ読んで出かけました。
 で、私はとても楽しく観ました。次の遠征が楽しみですし、東京のチケットも少し増やしてもいいかなと思っています。ビギナーの友達をたくさん連れて行きたいですね。宝塚っぽくないと言えば言えるので、もしかしたら初心者向きなのかも?とか思ったりもするので。
 私が個人的に日本のオリジナル・ミュージカルに一番不満を抱いているのが音楽についてなので(海外コンプレックスと取っていただいてけっこうです)、海外ミュージカルらしい複雑で豊穣で魅力的な楽曲にまず惹かれました。生徒たちもこの難しい歌によくチャレンジし健闘していたと思います。
 なのでこれは『ガイズ&ドールズ』や『ミー&マイガール』『エリザベート』『スカーレット・ピンパーネル』『ロミオとジュリエット』などのように、再演が繰り返され宝塚歌劇の大きな財産となっていく海外ミュージカル演目に育つのではないかな、と思いました。そのポテンシャルを十分に感じたのです。
 一方で、いわゆる「タカラヅカ」化としてこれでいいのだろうか、もっと手を加えより良くブラッシュアップできるのではないか、と考えさせられる点もたくさんありました。
 そのあたりを、あくまで現時点でのごく個人的な所感ですが、書いておきたいと思います。記憶違いや勘違いなど多々あるかもしれません、すみません。またネタバレ全開で語ります、これからご観劇の方はご留意ください。

 原作の舞台は「超大衆娯楽」なんだそうですね。小林一三翁が宝塚歌劇において目指したものもまた「国民的娯楽劇」だったはずなので、その意味ではちょうどいいはずなのですが、しかし日本人はその「国民」性としておそらくフランス人よりもう少し生真面目で、かつ純粋な娯楽、エンターテインメントを享受できるほど成熟した大人ではないので、もう少し作品に意味というか物語というかテーマというものを求めてしまいがちなのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。そして今回の宝塚版も、おそらくそういう視点からの改変というのはかなりなされているのではないかと思います。ストーリーに合うようキャラクターの持ち歌の入れ替えや歌詞を変更した部分がけっこうあるようですしね。
 また、宝塚版にするということは要するにスターを役にどう配していくか、という問題でもあります。宝塚歌劇とは演目そのものを見せるより、それを演じる生徒とその魅力を見せることに重きが置かれる部分がある、特殊な演劇だからです。
 配役発表時に話題となったのは、トップ娘役であるちゃぴこと愛希れいかがフランス王妃マリー・アントワネットを演じる、ということでした。つまりトップスターのまさおこと龍真咲が演じる主人公ロナンの恋人役ではないということです。
 宝塚歌劇団の各組にはトップスター(トップ男役とは言いません。「トップスター」と言ったら男役のことなのです)とトップ娘役がいます。トップ制度が確立されたのは『ベルばら』ブーム時代以降のこととされ、意外にもその歴史はそう古いものではありませんが、とにかく近年では各組にトップコンビがいます。例外的にトップ娘役が置かれない時期があることもありますが、基本的にはトップスターが主人公を演じトップスターの相手役であるトップ娘役が物語のヒロインを演じる、すなわちふたりは恋人同士を演じる、というのは宝塚ファンにとってはほとんど自明なことです。私なんかは宝塚歌劇とはトップコンビと男役二番手スターの三角関係を見せるべきものだと狭く考えているくらいです。
 もちろん何事にも例外はあるもので、トップコンビがカップルとならないお話も実は少なからずあります。だから今回の配役も、珍しいし例外的なことかもしれないけれど、ありえないというほどのことではなかったでしょう。
 なんといってもマリー・アントワネットというのはタカラヅカにおいて大スターです。そしてフランス革命においても超のつく有名な、象徴的なキャラクターでしょう。そして今のちゃぴなら十分に演じられそうです。片や革命を引き起こす原因となった贅沢三昧の王妃、片や一般大衆の代表であるド平民の農夫。トップコンビを対照的な立場に配して、「革命」そのものを描こうとしているのだろうな、と観劇前は私は考えていました。
 宝塚歌劇はトップコンビのラブストーリーを見せるものだと私は考えているけれど、この作品はそうではない、というならそれはそれでいい。おもしろければ問題はありません。ですが、ではこの作品の主人公は恋愛をしないかというとそうではなくて、ロナンにはフランス皇太子の養育係でありバスティーユの火薬庫の管理人の娘、オランプ(海乃美月と早乙女わかばのダブルキャスト)と恋に落ちるというストーリー・ラインがあるのでした。
 このラブ展開がねえ、いいんですよ。ひょんなことから関わり合って、その後も会わざるをえなくなって。銀橋でのふたりの場面のド少女漫画っぷりに私は盛大にときめきました。私はまさおのことはスターさんとして好きでも嫌いでもないのですが、そしてここのロナンはキャラブレしている気がするのですが(無学であることと粗野であることと純朴であることとはすべてまったくイコールではないと私は思うのですが、ロナンはキャラクターとしてどう設定されているのか、今ひとつ甘い気がします。設定のせいか演出のせいか演技のせいなのか?)、しかしまさおはラブシーンがホント上手いよね! お約束だろうと俺様な態度とか強引なキスとかには、反発のかたわらときめいてしまうのが女子というものではないでしょうか。宝塚歌劇の観客の大半は女性で、そして舞台に恋物語を期待して観に行ってしまうものなので、こう展開されたらここにときめいて、ここが物語の主軸かなと思ってしまうのも無理ないと思うのです。
 実際、ふたりには、というかオランプにはドラマがあります。ロナンは国王の名の下に父親を殺され、復讐を誓って都会に出てきた無学な青年。一方オランプは皇太子の養育係として王妃と王家に仕え忠誠を誓っている女性。アルトワ伯爵(美弥るりか)に見下されているように彼女はおそらくは貴族ではないのでしょうが、田舎のド庶民でもない。王家を憎む者と、王家を守ろうとする者。立場の違い、属する社会的階層の差。ふたりは惹かれ合いますが、その間には溝、障害があります。恋物語として鉄板の設定ですね(だが「身分の差ではなく、思いの差よ」という台詞はわかりづらいと思う)。
 だからこのふたりで恋と革命の対立を描くなら、アントワネットは要らなくなってしまうのです。ロナンが反体制側の主人公で、オランプが体制側のヒロインで、アントワネットはオランプが仕える女主人でロナンが革命で倒すべき相手だけれど、それは別格の女役スターが演じる悪役ポジションにしてしまってもいいわけです。というかおそらくその方がわかりやすい。馴染みのある構造になって、宝塚歌劇ファンにも受け入れやすかったことでしょう。だからちゃぴがオランプを演じればよかったのです。ちゃぴこそまさおの相手役なのですから。
 でも、そうしなかった。演出家の小池先生はあくまでまさおをロナンにちゃぴをアントワネットに配し、ふたりの対比、対立の物語を描きたかったのでしょう。
 でもだとしたら、オランプの存在感をもっと落とさないとバランスが悪い。ただでさえ我々は恋のヒロインに感情移入しがちなのですから。今はくらげちゃんだからまだ地味目だけれど(しかし演技は情感があって素晴らしい)、ダブルキャストのわかばはハンパないヒロインオーラを持った姫役者です。この配役パターンになったときの「ロナンとオランプの恋の行く末を追うのが物語の主軸」感はすごいことになると思います。それではまずいのではないでしょうか。
 だからだったら、フェルゼン(暁千星)のポジションをもっと上げるべきなのかもしれません。ロナンとオランプが恋に落ちるのと同様に、アントワネットとフェルゼンもまた恋に身を焦がしています。ロナンとオランプの恋に王家に対する立場の違いという障害があるように、アントワネットとフェルゼンの恋にも障害があります。アントワネットはフランス国王の妻であり、皇太子の母なのです。既婚者が愛人を持つことに寛容な文化があったこの時代の貴族社会とはいえ、国母となると差し障りがあります。ましてふたりともフランスにとっては外国人です、風当たりが強い。
 この二組のカップルをセットで、対照的に描いていくことが物語の主軸に見えるよう構成できると、より観易かったのかもしれません。それならサブタイトルの「バスティーユの恋人たち」にも通じます。私はこれをカップルが何組か、という意味に捉えていたので(ロナンとオランプのことのみを差しているのだとしたら、ますますちゃぴがオランプ役でないのがヘンだということになってしまうので)。
 ロナンとオランプのカップルは、最終的には立場の違いを乗り越え、自由を得て愛を選び、手に手を取って革命に身を投じていく。
 一方、アントワネットとフェルゼン(ところでアントワネットにフェルゼンを「アクセル」と呼ばせるのは何故なのでしょう…ファーストネームかもしれないし史実として正しいのかもしれないし親密さを表そうとしているのかもしれませんが、はっきり言ってわかりづらい。『ベルばら』に慣れ親しみすぎた宝塚ファンにとってフェルゼンといったら苗字だろうがフェルゼン呼びなのが当然です)は、深く愛し合いながらも、国のため、立場と義務と使命のために愛を葬り去ることを選ぶ。革命を前にして、別れ別れに生きていく。
 アントワネットとオランプは主従だから当然かもしれませんが、女同士でしみじみと語るいいシーンがあります。同様にロナンとフェルゼンにも男同士で胸襟を開いて語り合うような場面があるといいのかもしれません。それでこそ、宝塚版用の新曲だという「世界の終わりが来ても」をこの四人で歌うことに意味ができる。
 だからオランプは二番手娘役が、フェルゼンは二番手男役が演じればよかったのかもしれません。
 けれど近年の宝塚ではトップ娘役の低学年化が進んでいて、明確な二番手娘役らしきものをどの組も置かなくなりました。オランプのダブルキャストのふたりは、はっきり言ってスターとしてのポジションが微妙です。くらげちゃんは近作の新公ヒロインを何度も任されていますが、劇団が次期トップ娘役にと押しきっているようには見えません。わかばは新公ヒロインもバウヒロインも経験豊かですが、組替えして来ていてちゃぴより上級生だったりします。そもそもダブルキャストにしていることそのものが、人事としてこのポジションの怪しさを示してしまっています。と言ってソレーヌ(花陽みらと晴音アキのダブルキャスト)役のみくちゃん、はーちゃんも怪しい。
 そしてフェルゼンはと言えば…現状、配されているのがありちゃんです。声も演技も棒で呆然とした『明日への指針』新人公演よりかなりマシになりました、学年相応には健闘しているのかもしれません。劇団はバリバリ押しています。今回の新人公演で主演のロナン役です、そのあとバウ公演の初ダブル主演が決まっています。それでも、今回のちゃぴが素晴らしいだけに、ロナンが悪し様に言うようにありちゃんのフェルゼンは本当に「王妃の若いツバメ」くらいにしか見えません。物語のもうひとりの主人公であるアントワネットの相手役として、あまりにも力不足です。このバランスの悪さがとても引っかかるのです。
 ロナンとオランプは真剣に恋しているけれど、アントワネットは現実からの逃避のために若造と戯れの火遊びをしていただけなのだ…とすることもできなくはないと思いますが、これまた『ベルばら』洗脳でアントワネットとフェルゼンの純愛を刷り込まれている宝塚ファンにはやや受け入れがたいですし、はっきりそう演出されているようにも思えませんでした。この中途半端さがいかにもまずいのです。
 と言ってではここに誰を配すべきだったのかと考えると、今や月組は二番手男役が確立されていない唯一の組になってしまっているのでした。現状でカミーユ・デムーラン(凪七瑠海)を演じているカチャとアルトワ伯を演じているみやちゃんという同期ダブル二番手の、そのどちらを持ってきても問題があったでしょう。月組のスター人事は現在まったくもって複雑なのです。まさおと同期で専科スターということになるジョルジュ・ジャック・ダントン(沙央くらま)のコマと、ダブル二番手の下の不動の三番手スターであるマクシミリアン・ロベスピエール(珠城りょう)のたまきち、別格スターであるペイロール伯爵(星条海斗)役のマギー、いずれもそれなりの扱いをしなくてはならず、また現在のところ全員に絶妙にナンバーが割り振られているのでした。
 では中堅スターである、たとえばラマール(紫門ゆりや)に配されているゆりちゃんか? 美しすぎる印刷工たちのまんちゃんやとしちゃん、ゆうき、からんちゃんの誰かを使うべきだったのか? ありちゃんよりあーさ、まゆぽん、いっそれんこんだったらもっといい仕事をしたのではないか、と思うのは私の欲目でしょうか?
 この綺羅星のごとく並ぶスター群が結果的に作品全体を必要以上に群像劇的に見せてしまい、主役の影が薄く物語の主軸が何かわかりづらいという混迷を引き起こすことにもなっているように、私には思えました。本来はこの舞台はそうした群像劇的エンターテインメントだったのかもしれませんが、最初に言ったとおり、日本の観客は舞台に筋を求めがちなのです。たくさんのスターさんがいろいろ歌って踊ってわあ豪華で楽しい、ってだけでは駄目なのだと思うのです。それが主題のショーにすらスター人事を読んで観るのが宝塚ファンです。ましてストーリーがあるものにおいておや。
 この点がバランスよく整理されて観易くなると、この作品は一大傑作になるのにな、というのが、現時点での私の感想です。

 あとは、ロナンかな。大スターの歴史的人物であるアントワネットに拮抗するドラマ、インパクト、エピソードが彼にもう少し欲しいです。演出、脚本、演技すべてもう一押しもう一練り、するべきなのではないでしょうか。逆に言うと、今のところしどころがないと言っていいこの役を主役としてギリギリ成立させているまさおってホントすごい。歌が上手いのはもちろんですが、真ん中力が素晴らしい。宝塚歌劇のトップスターってこうでないとね。でも、そのスター力に頼りきってはダメだろう脚本!
 ロナンもアントワネットも、当初は近視眼的に生きています。国のことなど考えていません。ロナンは食べていくのに精一杯で、アントワネットは退屈を賭け事などで紛らわせるのに精一杯で。だがロナンは父を殺され、アントワネットは息子を病気で失うことで、自らを省み周囲の状況に気づき未来を考え始める。ロナンはパリに出て革命家たちに出会い、アントワネットは政治と革命に向き合っていく。ロナンはオランプとの恋を一度は断念するも、のちにアントワネットに任を解かれたオランプと結ばれ、アントワネットはフェルゼンとの別れを泣く泣く選んで、フェルゼンは国外に去る。綺麗な対比になっています。
 アントワネットが息子を失い神の罰に怯えて改心する、という流れはとてもわかりやすいものです。それ以前、享楽的な暮らしをしていたころの象徴が「全てを賭けて」のナンバーです。
 それに対するロナンのナンバーは「パレ・ロワイヤル」です。父を失い畑を取り上げられ妹を置いてパリに出てきた彼は、行き倒れ寸前でマラー(綾月せり)の印刷所の仲間たちに助けられ、デムーランたち革命思想家に出会って変わっていきます。でもこのくだりはもう少していねいに描き、具体的なエピソードを足して盛り上げ印象づけないと、わかりづらくて観客の共感や感情移入を誘いにくいと思うのです。それがロナンのキャラクターとしての弱さにつながっていると思います。
 現代日本に生まれ育って今このときに劇場に観劇に来られているような観客の多くは、まず女性であり、無学な農民出身などではなく多少の時間的経済的余裕があり、食い詰めたことも行き倒れたこともなく、そして国家や政治や革命や戦争といったことをあまり考えたことがない人たちなのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。観客はむしろ、ロナンが対立するプチブルジョワである革命思想家たちに近いところにいるのだと思うのです。
 そんな観客を、この主人公に感情移入させなければなりません。彼の志を応援し彼の幸せを祈り彼の言動に寄り添っていく気持ちに、させなければいけません。その誘導が今のところ甘いのではないでしょうか。宝塚のトップスターがやるから、まさおが演じるから、ということにおんぶに抱っこではまずいと私は思います。もっとロナンを素敵に描いて、活躍させないといけません。
 ロナンが知った学ぶ喜び、広い世界を知ったときの驚きやワクワク、焦りなんかをもっと描くといいのかもしれません。デムーランたちとの対立も、歌一曲でなんとなく解消してしまうのではなくて、命がけの男同士の友情!みたいなことが表現できるような具体的な事件なりエピソードなりが欲しいところです。囚われたロナンを助け出したのはオランプだけれど、デムーランたちもまた手を回してくれていたのだとあとででいいからわかる、とかね。
 また、デムーランたちアタマでっかちなぼんぼんと違って、ロナンには本当にド庶民らしい根性がある、みんなに愛され助けられる愛嬌、みんなを引っ張れる度胸があり、親分肌なリーダーシップがある、とするとかね。デムーランたちがどんなに演説しビラを配っても動かせなかった一般大衆を、ついに革命に引っ張り出したのがロナンだった、とするとかね。シャルロット(紫乃小雪)は宮廷の女王アントワネットと対比されるべき地下組織の王女様なのかもしれませんよね、その彼女が子供ながらにロナンに惚れちゃうような流れがあってもいいのかもしれません。
 このロナンだから、山が動いたんだ、革命が起こせたんだ、というパワーが欲しい。彼は大海の藻屑ではなくむしろ大河の一滴にして最後の、最大の駄目押したる存在だったのだ…と見えるといいと思うのです。それでこそ、アントワネットの向こうを張れる、物語のもうひとりの主役、タカラヅカのトップスターが扮するべきキャラクターです。

 アントワネットは最後には妻として、母として生きることを望み、神に赦しを乞うて祈ります。だがギヨタン博士(響れおな)が発明した斬首刑台の模型が不気味に光り、彼女の死を暗示して彼女の場面は終わります。
 ロナンもまた、落命して終わります。でもこの死、もうちょっとどうにかなりませんでしたかね? 今の演出もあえてなんだろうとは思うのですが、私には中途半端に見えました。
 バスティーユの跳ね橋を下ろした男をロナンに重ねた、と小池先生はプログラムで語っています。ならばロナンは橋を下ろすことと引き換えに死ぬべきではなかったでしょうか。壁によじ登っている間に撃たれ、最後の一息で橋を止めている鎖を断って、橋を下ろすと同時に絶命する演出にした方がよかったのではないでしょうか。
 あるいは、橋が下りて民衆が火薬庫に入り武器を取り、軍隊に対して優勢になっていよいよ革命の勝利が決定的なものになり、ロナンとオランプにも明るい未来が待っている…というところにむしろあっけないくらいにつまらなくロナンが命を落とす、とした方が、より悲劇的でドラマチックだったのではないでしょうか。
 今の、ロナンがオランプの父を庇ってペイロールに撃たれて死ぬ、という流れが私にはとても陳腐に、中途半端に思えます。これじゃ私は泣けない。かつてペイロールに父親を撃ち殺されてパリに出てきて革命に目覚めた青年が、今度は恋人の父親を庇ってペイロールに撃ち殺される…という皮肉に意味が持たせられるほどには、この物語におけるペイロールの悪役っぷりは重くはないのではないでしょうか。
 ロナンはもっとつまらないことで死んだ方が、たとえば名も知らぬ兵士にひょいっと撃ち殺されるくらいの方がよかったのではないでしょうか。それともラマールをもっとすごく小物チックに描いて、オランプに横恋慕したラマールに射殺されるとか?
 フランス版でもオチはいくつかパターンがあるそうですが、さて、どうなのかな?
 その後の、死んだ主人公が天上にいることを示す白いお衣装になって再登場し、組子全員がそろって(フィナーレの歌手に回るみやちゃんだけがいないのですが)人権宣言をして愛と平和を歌う「悲しみの報い」で本編が終わるのは、いかにも小池先生っぽいし宝塚っぽいお約束でもあって、素晴らしいのですけれどね。
 そのあとのフィナーレで、まさおとちゃぴがデュエットダンスをするのも、トップコンビの定番ではありますが、彼らが本編ではロナンとアントワネットだからこそ意味があり、おもしろい。よくあるラブラブいちゃいちゃフワフワのデュエダンではなく、バリッとバシッと丁々発止のダンス対決をしているような、鮮やかで気持ちのいい踊り。ふたりが銀橋に出ても、まさおが差し出した手にちゃぴが手を預ける直前でストップして終わる振り付け。別に喧嘩しているのではない、争っているのではない。ただ対になって楽しんでいるのです。物語本編でもほとんどすれ違いばかりで目を見交わすこともなかったロナンとアントワネットのように。でも実は違う場所でとても似た生き方をしていたふたりのように。
 美しい。この美しさには泣けました。

 そしてもう一点、本編ラストの人権宣言について。「自由とは、他人を害さない限り何事をもなしえるということである」だったかな? この言葉が力強く発声されるこの舞台を、今のこの日本で上演することにはものすごく大きな意味があると私は思います。
 今、戦争をする自由を再び手にしようとしているこの国において。
 自由とは他人を害さない限り何事をもなしえるということであり、戦争というものは絶対に他人を害するものです。だから「戦争をする自由」という言葉が撞着語法であることに、普通の知能があればすぐさま気づきそうなものですが、どうも今の世の中はそれが怪しい。
 フランス革命が樹立した人権宣言は形を変えて各国の憲法に生かされ、その果てに我々は戦争を永久に放棄しました。この革命に死んだ人も生き抜いた者も、今はもう生きてはいません。200年以上も前のことだからです。それでも思想と命は連綿と受け継がれて、今の世の中があるのです。
 私はこれからも自由にものが言いたい、自由に出版し集会したい、誰も殺したくないし殺されたくない、誰かを戦地に送りたくないしどこかを戦地にしたくない。
 私にとって宝塚観劇は現実からの逃避ではありません。そこに愛と美と希望と理想があるから通っているのです。そこに現実のあるべき姿の理想像を観るから、未だそうなっていない現実をもう少しどうにかできるよう自分も明日からまたがんばろう、と思いまた現実を生きていく、そういう回遊の中にあるごくありきたりの日常なのです。ここで軍国劇が上演されたり、劇場が接収されたりするのを絶対に見たくありません。
 私はこの宝塚歌劇という奇跡のような、愛に溢れた美しい舞台が好きで、うだうだ言いながらもずとずっと観続け愛し続けていきたいし、その他この世にあるあらゆる愛しいもの美しいものを愛していきたい。この世をより美しく幸せにするために微力ながら働きたいし、自分の人生も美しく幸せなものにしたい。
 それを侵そうとする者の自由は認められない。戦争をする自由なんかいらない、そんなものは誰にもないのです。戦争は必ず他人を、世界を害するものだからです。
 ロナンが、『1789』の登場人物たちが、月組の組子と初舞台生が発するこの魂の叫びを、観た以上は、私たちは厳粛に受け止めなければならないと思います。

***

 以下蛇足。
 今回は珠城日記2は書かないのではないかしら…「ぎゃーっロベスピエールかーっこいーいっ! 以上!!」なんだもん感想が(笑)。
 ただですね、私は珠城さんのサヨナラショーを想像してはうっかり泣けるくらいこのスターさんを愛していますが、ちょっと思いついたのですが珠城さんのトップお披露目公演に『1789』再演ってどうですかね?
 お披露目が一本立て、かつ海外ミュージカルの再演、もちろん例外もありますが最近の流行ですよね。十分ありえそうですよね。
 かつトップ娘役のサヨナラ公演だとベストなのではないかしら。彼女がアントワネットを演じ、二番手娘役で次期トップ娘役がオランプを演じる。二番手男役ないし上級生別格スターがフェルゼンを演じる。いい布陣ではないですか?
 というかただの欲目でしょうが珠城さんのロナンなら成立しちゃうと思うんですよねこの話のすべてが。ド平民の土臭く男臭い主人公が這い上がり目覚め駆け抜けていく物語として、据わり良く見えちゃうと思うんですよね。ロベスピエールのボディパーカッションのあとロナンがセンターになると音が軽くなっちゃう!みたいなことはなくなると思うんですよね!!(爆)
 …でもやっぱりその前に、「え、ニンじゃなくない?」みたいなすんごい甘ったるいアタマ悪いラブコメみたいなのとか、愛に殉じて死ぬようなベッタベタのどロマンスの主演をやっておくべきだとは思うんですけれどね。本当に色気が出てきてファンはもうきゅんきゅんですが、それでもキラキラ力とかタカラヅカっぽい王子様力とかがまだまだ足りないと言えば足りません。次の主演作、そのあたりをよくご考慮くださいませね歌劇団さま。その趣旨でなら私いくらでもプラン立てるわ記事書くわ(笑)。
 生徒とファンを大事にして、生徒の魅力を生かし引き出す作品を生み出し続けていければ、宝塚歌劇は200年でも300年でも続いていけます。そしてそのうち人類そのものが滅びるのだから(戦争のせいではなく種としての寿命で、ね)、その最期のときまで美しく幸せな夢を紡ぎ続けていきましょう。それを支え続けさせてください、お願いいたします。



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