駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ネクスト・トゥ・ノーマル』

2022年04月02日 | 観劇記/タイトルな行
 シアタークリエ、2022年3月31日18時。

 郊外の町に暮らす、平凡な父と母、息子と娘の四人家族。平和な生活を送っているように見える一家だが、実は母親のダイアナ(この日は望海風斗)は長年、双極性障害を患っていた。父親のダン (渡辺大輔)はそんな妻を献身的に支えながらも疲れ切っている。ダイアナは息子のゲイブ(甲斐翔真)に愛情を注いでおり、娘のナタリー(屋比久知奈)は母から愛されていないと感じている。ある日ダイアナは服用している薬をすべてトイレに流してしまい…
 音楽/トム・キット、脚本・歌詞/ブライアン・ヨーキー、翻訳/小嶋麻倫子、訳詞/小林香、演出/上田一豪。2009年ブロードウェイ初演、翌年にはピュリツァー賞を受賞したミュージカル。2013年日本初演、今回は日本オリジナル演出版。全2幕。

 初演の感想はこちら。このときはトウコさんで観たので、今回はだいもんチームで観ました。ちなみに今回のトウコさんチームはダンは岡田浩暉、ゲイブが海宝くん、ナタリーが昆ちゃんでお医者はニーロさん。
 初演もトウコさんに惹かれて観に行ったんだとは思いますが、感想を再読するとナタリー役者に注目したこともあってかずいぶんとナタリー視線で観ていたようですね、私。でも今回はだいもん目当てで観に行ったので、ダイアナ視線で観ていました。もちろんお話は綺麗さっぱり忘れていたので、ドキドキ見守りましたよ。また曲数がめっちゃ多く基本的にずーっと歌っているタイプのミュージカルで、拍手の入れようもない展開なことも多く、すごく集中して観られました。ヘンリー(大久保祥太郎)もドクター(藤田玲)も含めて、キャスト六人が全員めちゃめちゃ歌が上手くて何曲もガンガン歌いこなしてガンガン話を進めるから否応なく連れていかれる、というのもあります。いやー音程とかにハラハラしないってラクですね!(爆)
 さて、でも私はダイアナのように妻になったこともなければ母親になったこともなく、またその子供を乳幼児のうちに亡くしたこともありません。そして病人がいる家庭で育つ、ということも幸いなことに経験しないですみました。イヤこれから親の介護とかがあるかもしれないけれど、それはまあ順番というかある種当然のことであり、病気の親に振り回される家族の一員として育つ子供、というナタリーの境遇とはまるで違うものでしょう。しかも結局のところ私はいろいろありつつも今のところひとりで悠々自適で生活しているのであり、ダンのように愛しているけど病んでいる相手、あるいは病んでいるけれど愛している相手と暮らす苦労もしていません。でもだから他人事に思えた、ということはなかったのは、キャストの力量と私のだいもんへの愛着があったからかもしれません。そしてもちろん、この作品に普遍性があるからでしょう。これはダイアナの病気の物語というよりは、あくまでも、家族の物語だからです。そしてどんな家族であれ、家族がいない人間はいないのです。だから我がこととして観られる、考えられる…そんな作品だったと感じました。
 誰もが普通に幸せでありたい、というようなことを考えるものでしょう。でも普通ってなんだろう? あるいはいろいろな事情でどうしてもそんな「普通」にはなれないとしたら? なら、「普通の隣」くらいでもいいよね、というタイトルの物語です。このネクストというのは日本語で訳されがちな「次の」「その先の」というニュアンスよりも「その隣の」「類似の」といったような意味に近いのでしょう、多分。
 家族だから、一緒に暮らし支え合う、それが普通、という考えに凝り固まって、それでさまざまなゆがみやひずみができてみんなが悲鳴を上げていた家から、みんなが出ることにする。まずダイアナが、そして成人が近いナタリーも愛するヘンリーを得て、いずれ。そして、ゲイブは誰にも見えなくなる。そもそも死んだ子の歳を数えていたダイアナだけが見る幻だったのだから…でも実は、そうして家にひとり残ったダンにだって、彼の姿は見えていたのでした。父親は孕まないから、産まないから、子供の死が悲しくない、なんてことはないのです。彼もまたゲイブの死に十分傷ついていたのです。誰かの悲しみを誰かの悲しみと比較することなどできない。違う傷、違う痛みがあるだけなのです。彼だってゲイブが生きていたら…と考えることはある、ゲイブの幻を見ることもある、そして常に目を背けてきた。そうやって耐えてきたのです。でもゲイブはいつもそこに佇んでいて、ときに死への恐ろしい誘惑を父親に歌うことすらあるのでした。でももちろん慰め合い静かにデュエットすることもある…なんて悲しく美しい「闇広」…とかつい思っちゃいましたよね。それでもひとりになってダンはやっと静かにゲイブと向き合えるのでしょう。
 同じ家に暮らさなくても、離れていても、たとえ離婚しても、家族は家族です。それはこの苦しみ足掻いた18年があったればこそ持てた確信、できた決断だったのでしょう。別れてみても、ダイアナの病気は結局は完治しないかもしれない、症状の改善すらないかもしれない。でも、とにかく今までいろいろやってダメだったんだから、違うことをやってみよう。まず離れてみよう、それは終わりではなく新しい始まりなのだ。希望は、可能性は常にある。だって生きているんだから。家族がいて、愛があり、信頼があり、個々に勇気があるんだから。普通じゃなくても、普通の隣で十分なのだから。明けない夜はない、前を向いて歩き出そう…
 そういう物語だと思いました。ものすごく感動して気持ち良く拍手し、気持ちよくスタオベしました。良き舞台でした。
 こういう物語がこういう音楽でこういうテイストのミュージカルになる…本当に、舞台というものの懐の大きさを感じます。
 そしてそれを歌いこなし演じこなしてみせるキャストの力量に痺れました。暗転もほぼなく、家のセットの中だけで流れるような場面転換で紡がれる物語を、忙しく出たり入ったりしながら…大変な作品だと思います。とても素晴らしかったです。

 ダンとダイアナは40歳手前くらいの夫婦なんですよね。だいもんはちゃんとそれくらいの歳の、でもちょっと若く見える、綺麗な、でも疲れている女性にちゃんと見えて、とても素敵でした。またしょーまくんののびやかなブリンスっぷり、甘いマスクで長身でスマートででもいいカラダしているところがとても、「夢に現れる愛息子の成長した幻の姿」を体現していて素晴らしかったです。ダンの生真面目さや不器用さ、いかにも普通の男性っぽくちゃんとしていそうで意外とけっこうダメそうなところなんかは渡辺大ちゃんが抜群に上手く演じ、秀才で聡明でだからこそこじらせかけている実はごく普通の少女であるナタリーの痛々しさやいじらしさ、エキセントリックさは屋比久ちゃんが絶妙に演じていました。そしてそれこそ普通の、でも実はこんなにも気が長くあたたかで優しいなんて決して普通じゃないヘンリーの朴訥な素敵さを、大久保祥太郎が的確に扮していたと思いました。お医者もいいよね、ダイアナから見た姿も演じなきゃいけないし、患者をモルモットのように考えていそうなダメ人間っぽい感じも出さなきゃならない…そしてロックスターもやる(笑)、これまた上手かったです。満足。
 バンドもこんなずっと演奏しているような演目は大変だろうなあ。バンドは役替わり公演はないのかな、重労働ですね。
 だいもんのカテコの謎トークのレポがよく流れてきますが、トウコさんはどんなことををしゃべっているんでしょう(笑)。これもこのあとあちこち行く公演ですね、千秋楽までどうぞご安全に!






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