駒子の備忘録

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『Le Fils 息子』

2021年09月08日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京芸術劇場、2021年9月6日19時。

 17歳のニコラ(岡田圭人)は難しい時期を迎えていた。両親の離婚により家族が離ればなれになってしまったことに動揺し、登校したふりをして無気力に過ごす数か月。母アンヌ(若村麻由美)との関係もぎくしゃくしていた。アンヌはニコラの父ピエール(岡本健一)にニコラの様子がおかしいことを訴えるが…
 作/フロリアン・ゼレール、翻訳/齋藤敦子、演出/ラディスラス・ショラー、美術/エドゥアール・ローダ、照明/北澤真。
 『Le Pere 父』に続き、ゼレールの戯曲をショラーが演出する企画の第2弾。2018年パリ初演の日本初演。全1幕。

 前作はアンソニー・ホプキンス主演の映画『ファーザー』になって、アカデミー賞の話題などでも取り上げられましたよね。橋爪功主演の舞台、観ておけばよかったなあ。『La Mere 母』と三部作になっているそうで、「三部作の中で/いちばん写実的で具体的」な作品だそうです。
 私は初めましての作家、演出家ですが、岡本健一と若村麻由美が大好きなので、初日のわりと直前にチケットを手配して出かけてきました。ジャニーズ案件なのにまだ取れたし、一階後方は空いていましたね、残念です。
 芝居に対してややハコが大きい…のかもしれないけれど、舞台のややがらんどうな広さのあるところに、あのスタイリッシュな壁の装置がガラガラと移動して、場面や場所を転換させるのが実に作品にハマっていて、実にザッツ・フランス演劇!という感じがしました。実際のところは全然知らなくて、イメージだけど語っていてすみませんけれど。ストーリーのぶっちゃけウダウダした展開も、フランス映画みたい!ザッツ・フランス!!これでどうオチるのよ??と思いながらジレジレと見守りました。ホントにイメージだけです、すんません。でもなんかそんなイメージじゃないですか、古い観念だけど。
 これはパリのブルジョワの物語だそうで、そのことに意義があるんだろうし、役者も日本人が日本語でやるからといって「日本の物語にしてしまうのではなく、日本の私たちの身体を通して、フランスの現代劇を実現すること」を求められていたそうです。それは正しい、と思いました。あえて、あまり普遍的な物語にしていないんですよね。こういう男女は離婚するとか、親が離婚した子供は必ずこうなるとか、離婚で離れた父と息子はこうなりがちだとか、そういう類型や押しつけみたいなものは巧妙に避けられている気がしました。おそらくわざと、キャラクターには平々凡々とした名前がつけられているのだけれど、それでも、いやだからこそ、とある家族の一ケースとして、この物語は紡がれている気がしました。
 その上で、作品ではこの部分だけが切り取られていて、語られていないこともけっこう多い。だけど、要するに見せたいのはこの部分なのだ、という主張を感じる作品でした。いい歳の観客が観るとみんな何かしら脛に傷持つ身で(たとえば私ならソフィア〈伊勢佳世〉に近い立場になったことがある)、つい我が身に引き寄せて、もっとああしたらとか私もこうだったとか俺はこうじゃなかったとか、考えがちなんだと思うんですよね。でもそういう感傷を一切排除して、作家はこの物語を観てもらいたかったのではないかしらん。
 タイトルロールはニコラかもしれないけれど、彼を「息子」と呼ぶのは彼の両親なのだから、要するに主役はピエールです。ソフィアと恋愛してアンヌと離婚しニコラと離れたのは彼です。だから主人公は彼です。
 彼自身も父親から抑圧を受けて、十分な愛情が得られなかったと考えているし、それでも自分はそれを乗り越えて勉強し仕事をしがんばっている、と思っている。だから息子にも同じようなことを期待しているし、できるはずだと考えている。恋愛とかは独力でどうこうできるものではないから仕方がないことなのだ、と棚上げして逃げてもいる。
 でも本当は、離婚当時も、その後も、今でも、これからも、何度でも、自分はニコラの父でありアンヌはニコラの母であること、ピエールとアンヌが離婚してもそれは変わらないこと、一生変わらないこと、ニコラはふたりが愛し合って生まれたこと、けれど今はピエールとアンヌは男と女としては愛し合っておらず夫と妻としてやっていけなくなったので離婚したこと、を何度でも何度でもニコラに説明しなければいけなかったのでしょう。それは親の義務です。子供をこの世に生み出したのは二親なのだから、その責任は取らなくてはならない。そして子供は、その性別がなんだろうと歳がいくつだろうとどんな環境にいようと、自分が親に愛されて生まれてきたのだと思えなければアイデンティティの確立ができず、そこから彼にとっての世界はすべて崩壊してしまうのです。逆に根幹さえつかめれば、ニコラはいい子だしいい歳なんだし、「今のピエールとアンヌは男と女としては愛し合えず夫と妻でいることはやめた」ということが理解できるでしょうし、それがふたりの子供である自分とはなんら関係がないことだとも思えるし、理解もできることでしょう。
 でも、ピエールもアンヌも逃げている。ピエールはソフィアと恋愛してアンヌとニコラを捨てたことを恥じているから。アンヌは未だにピエールを愛していて離婚に納得していないから、そしてシングルで働くことに忙しいから。親ふたりがそこを乗り越えておらず、直視できず、棚上げして逃げているから、すべてのしわ寄せが子供に来るのです。そして繊細な子供ほど病んでしまう。「人生が重すぎる」なんて、決して子供に言わせてはいけない台詞です。だがニコラはそう口に出さずにいられない。もうすぐ大学受験で、つまり親元を出て独立して成人して、「親の子供」ではなく誰かと番い誰かの親になる側の人間になる時期に来ているのに、ニコラにはそんな準備が全然できていないのです。
 医師(浜田信也)はこういうふうにしか言えません。朝ドラの「正しいけど冷たい/冷たいけど正しい」ですよ、まさに。結局は家族の問題なのです。そして絶対に逃げ続けることはできない、いつかカタストロフが訪れる。だから逃げずに向き合って、言葉を尽くすしかなかったのです。でも結局ピエールにもアンヌにも、それができなかった…
 これはピエールの物語だから、ラストもがらんどうになった舞台に立ちすくむピエールのシルエットです。でも彼にはもうひとり息子がいるんですよね、それが恐ろしいですよね。彼は今度は息子に向き合える…とは、私にはちょっと思えませんでした。それは、夫も息子も失い、その後が描かれずに終わるアンヌのことを思うとなおさら、そうでないとバランス取れないだろう、と変な義侠心で考えてしまうせいもあるかもしれません。本当は誰かが救われ始めないと、みんなで沈んでてもダメなんですけどね…
 湿り気がないだけに不思議と重い、おもしろい二時間でした。役者は他に看護師とスタンドインを担当した木山廉彬の6人のみ。シンプルで美しい舞台でした。音楽も照明もとても効果的でした。
 私は岡本圭人を知らないので、それだけで「ああ、親子だな」とは思いませんでしたが、実の父子でこの作品を上演する、ということにはそれはそれで意味があると思いました。でも、若村麻由美がプログラムで語っていたように、ふたりは普段は特に親子に見えなくて、「ピエールとニコラを演じているお二人は親子に見える」「役の方が親子っぽいなんて、役者として素晴らしいこと」というのは同感です。岡本圭人はアイドル活動を別にすればこれが初舞台、初主演とのことでしたが、変に線が細くないところが逆にこの役にはよかったなと思いました。他全員芝居が上手くて、震えましたよね…
 そういえばプログラムはハードカバーとはいえ2200円もしました。岡本父子のモノクロ写真集みたいにもなっていて、カッコよかったんでいいっちゃいいんですけどね、こういうものはお布施みたいなものですしね…
 残念だったのは、ラストの暗転にすぐ爆竹拍手が入ったことです。絶対にスタッフのサクラだもん、興醒めしました。検索したらいくつか同様の感想が出てきたし…そんなことしなくてもあれでオチだってわかります。わからなくても、次に装置がハネて役者が揃ってラインナップになったら芝居は終わったってわかるでしょ、そうしたら拍手は自然に湧きますよ、感動したのならね。余韻ぐらい味わわせてくれよ…
 あと、このご時世、さっさと規制退場させたいのはわかるけど、客電つけても拍手が止まずスタオベする客も出てるんだから「退場してください」「座ってお待ちください」みたいなボード待った係員が客の視界を遮るように舞台の前に出てくるってなんなの…オペレーション考えてくれよ…なら徹底して役者をもうカテコに出すなよ…いいハコなだけに残念でした。
 これも北九州、高知、能登、新潟、宮崎、松本、兵庫とツアーするんですね。無事の完走をお祈りしています。






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