駒子の備忘録

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まさかの月城日記~『ダル湖』マイ初日雑感

2021年02月20日 | 観劇記/タイトルた行
 どうしましょう、今私はこれをこのまま月城日記としそうな勢いでいます…と書き出したのですがそうすることにしてしまいました(笑)。何故赤坂とDC一度ずつの観劇予定にしてしまったのだ自分、イヤ事前に手配していても客席半分のこの時期、チケットは厳しかっただろうがしかしあと100万回観たいぞ…というわけでいつもならマイ楽後に感想をまとめるのですが、待てないので上げます。でもロゴはなんかおどろおどろしいので変えてもよかったと思っています(笑)。

 まずは順番に。
 というわけで赤坂ACT劇場『ダル・レークの恋』2月19日13時公演を観てきました。
 この演目は前回上演時は月組全国ツアーで、アサコミホコのトップコンビに大空さんが2番手格としてペペル(今回は暁千星と風間柚乃の役替わり)を演じていましたが、なんと大空ファンともあろう私がこれを生で観ていません。大空ファンだったからこそアサコが組替えしてきた頃あたりの月組がしんどくて観ていられなかったのか、最初にハマった頃のスターがどんどん卒業しトップスターも代替わりしていってみんな小粒に思えてきたか、仕事が忙しくて観劇を優先できなくて遠のき気味だったか、当時の記憶は定かではありません。マリコユリの星組本公演版も生では観ていません。ユリちゃんは好きだったんだけど、なんでだろう、たまたまかな…この頃はまだ何がなんでも全演目観る、とかは思っていなかったことは確かです。
 で、「来るんですか、来ないんですか」とか「さあ、卑しいことをなさい!」とかの名台詞は知っているわけですが、だいたいのシチューエーションしか知らなかったので「つーかレイプじゃん」とこっそりずっと思っていましたし、今回の再演が決まってスカステで放送していた月全ツ版を予習として見たときにも、「うーむ事情はわかったが、しかしやはりこれは卑怯というかなんというか…ラッチマンが実は何をしたいということなのかよくわからん」とモヤったものでした。今、再度見てみたのですが、思うにアサコがちょっと色悪すぎる役作りをしているのかもしれません。ミホコともども芝居がウェットというか。なのでボタンの掛け違いがなくても、そもそもこのラッチマンが本当にカマラを愛していたのだろうか、という疑問が湧いてしまう仕上がりになっている気がする…うーん、比較しすぎかな?
 そして今回は、タカヤ先生が潤色、新演出に立ったのが効を奏したのだと思います。これまた比較すると、ハコの違いはもちろんあるけれど、セットやミザンスが上手くブラッシュアップされていると思いました。何より脚本の精査と演出、芝居の質がいい!
 バウデビュー後、本公演デビュー前のヤング演出家って今数人いると思うんですけれど、私は最も期待している人材です。なんかセンスを感じる。今回も、まずプログラムのコメントが良かったです。「免疫力爆上がり」はともかく「鼻血必至」というのは、スミレコード的にNGとまでは言わないまでも品位に欠けるかなとは感じましたが、その前の「守るべきものとチャレンジの天秤をリスペクトを持って考え続ける精神」「こっぱずかしさついでに大きく言ってしまえば、それは人生のあるべき難しさと通ずる」「人間の理想に対する願い、人の世のプラスのエネルギー」「愛や理想に対するニヒルな諦観が主題ではありません」というような言葉が紡げるところに期待できます(この「あるべき」はどうだろう?とは個人的には思いますが)。というか単に好みなんだと思います。私は景子先生には同族嫌悪を勝手に感じているんですけれど(なんか自分が作家だったらこういう作風になりそうな気がして嫌なのです。この点に関しては景子先生には多分罪はない…)、同じ感じでタカヤ先生にも勝手に近いものを感じていて、かつなんか弟に持つような好感を持っていて、所詮同性に厳しく異性に甘いのかと言われても仕方がないのかもしれませんが、この肩入れ感はなんなんだろうと自分でもとまどってはいます。あとは本公演オリジナル作品でその力量を証明していってくれることを願うしかありません。ちなみに、なのでこの「タカヤ」呼ばわりは、「谷先生」だと皆殺しうんちゃらと区別がつけづらいからであり、たとえて言うと「イケコ」に近いニュアンスで、「ヨシマサ」の意味ではありません。「ダイスケ」はその真ん中くらいかな(笑)。勝手かつ失礼かつわかりづらい表現で申し訳ありません。ともあれマジで期待しています。
 今回も、もともと1幕のお芝居だったものを2幕ものにリメイクしていることもあって、全体にややまったりしていると言えないこともないとは思うのですが、華やかなプロローグ、たっぷりの場面数があるフィナーレ、劇中のショーアップや心象風景を彩る歌とコロスのダンス(水の青年は彩音星凪、水の少女は菜々野あり)と飽きさせず、品が良くかつ効果的な映像使いと、何より身の詰まったお芝居が素晴らしく、生徒はもちろんですが演出家の手腕を感じました。クラシカルなザッツ・宝塚歌劇を久々に堪能できて、楽しかったです。これはホント全国津々浦々にツアーで持っていきたかった、あちこちで新しいファンをきっとたくさん開拓できたはずだ喜ばれたはずだ!としみじみ思いましたね。何よりACTの舞台が意外と小さくて窮屈そうで、もっと大きなところでのびのびやらせてあげたいなと思いましたし、ときにはがらんどうに思えることもあるほど大きい神奈川県民ホールの空間が今のれいこちゃんならひとりで埋められるよ、ぜひトップスターになったあかつきには再演全ツして凱旋しようぜ!と、れいこちゃんと同じく神奈川県出身者としては深く念じたのでした。
 てかさっさと就任を発表してくれないかなー、これが次期トップさんねと思いながら観るのはまた格別だと思うんですよ。こういう時期にしかないことですし…ドラマシティはそんなふうに観られるといいなあ、いやあホント盤石!と感動しました。組力が上がっていることも感じました。
 そして私はずっとれいこちゃんについては、お芝居は上手いと思うし好きなんだけれど、私の好みからすると美人すぎるわ、なので個人的にはなんか今ひとつ興味が持てないスターさんだわ…というようなことを、本当にずっとずっと言ってきたと思います。ここにも何度も書いていると思う。ファンの方はそのたびに本当に気に障って嫌な思いをしたことでしょうね…申し訳ございません。でも好みとかってホント謎だし、私は珠城さんが好きなのでれいこちゃんが月組に来てからは観る頻度も増えたかと思いますが、それでもその印象は変わらず、ずっとそんなようなことを書いてきたしつぶやいてもきたと思います。『ラスパ』もそんな感じだったし、シャルルおじさんもおじさんとして好きなだけだったように思います。それかシャルジャンのカップルとして好き、とか。イヤ役だけじゃなくて中の人にもだいぶ好感を持つようになってはきていましたけれど、それでも。
 でも今回、席がどセンターで観やすくて視線がガンガン来てハクハクした、というのもありますが、「えっ、えっ、私ってこんなにれいこちゃんのこと好きだったっけ!?!?」ってくらいに、まさに自分でもとまどい動揺するほどに、終始胸が高鳴りっぱなしの観劇となったのでした。いやーマジで驚いた。ずーっと顔がいい!好き!!って思いながら観てた。顔がいいのなんかずっと知ってたのに、今まではそれで終わっていたのに。
 そして、くらげちゃんに関しては引き続き苦手のままだったので、なんかかえってセーフ!とか思ってしまいました(この件に関してもファンの方には申し訳ないと思ってはいます…)。私、この物語のこのカマラという役を好みの娘役さんに演じられていたら、もうタイヘンなことになっていたかもしれません。こじらせて、萌え萌えで、つらくて、しんどくて…今回はなんか、好きで肩入れして観たのがれいこちゃんの方で、ラッチマン側、主人公側でセーフ、というか。私は娘役ちゃんが好きなので、宝塚歌劇はトップスターありきなのだと理解していても、物語はすべてヒロインの、女の物語として受け取ってしまうところがあり、カマラにあまりにも肩入れして観ると作品全体の印象が大きく変わってきただろう、と思うのでした。ま、今でも結愛かれんとかにやらせてほしかった、とは思っていますけれどね…だって新鮮さがないんですもん。上手いのは知っています、でも地味だと思ってしまうのです。『瑠璃色』も『アンカレ』も『ラスパ』も『出島』も観ました。でも好きじゃないから気づけないってのもあると思いますが、みんな同じに思えてしまう…だからもういいじゃん、と配役発表のときにはガッカリしたんですよね。すみません…でも月娘は今、これぞという可愛子ちゃんが他にいないんですよね(あくまで私の好みの顔の娘役さんがいない、ということです)。さくさくがいなくなったら私は見るところがなくなってしまう…何組だよ、とつっこまれようと、みちるが組替えしてきて次期トップ娘役に就任してくれないかなーと夢想しています。それか、くらっち。それか、らら。個人的にはららを強くオススメしたい、似合うんじゃないかなと思うんですよね。だって華が欲しいよね、イヤこんだけ美しい人にナニ贅沢言ってんだって感じだけど、横にいて負けない、かつ方向性の違う華が添えられると最強のトップコンビになると思うんですよね…ららはいいと思うんですよホント……
 あ、でも、プログラムのくらげちゃんの写真がヒロインなのに小さすぎたり、プロフィールページがないことには怒りを感じています。別箱でもトップトリオ格はきちんと遇するべきでしょう。なんの線引きをしたいのかわかりませんが、だったらこんな配役すんなよ。娘役は軽く扱っていい、などということはない。劇団には猛抗議したいし、猛省していただきたいです。
 まあいい、話を戻して、そんなワケでれいこです、ラッチマンです。あ、以下ネタバレ全開で語ります。

 というか、ターバンの尻尾は長いほど良き…ということを今回私は初めて知りましたよ…確かにショーなんかで出てくるターバンは尻尾がないかあっても短くて、場面としても海賊とかワイルドめの男役たちがバリバリ踊るタイプのものが多かった気がするので、今回の礼装としてのターバンとはちょっと意味が違うのかもしれませんね。そして見比べるとアサコのときより垂れる部分の量が少なくてわさっとしていないのが、上品で美しいのです。
 プロローグ、黒燕尾にターバンで居並ぶ男役たち、その奥にひとり客席に背を向けて佇む影、背中に流れるターバンの尻尾、振り返るとそれがくるりと翻り、ライト、拍手!みたいなベタなの、もうたまらん!! そして顔がいい!(何度でも言う)
 いやタカラジェンヌってもちろん美人ばっかりなんですけれど、どこに出しても誰が見ても美人と判定するだろう真の美人、というかそういう方向性の美人は意外と限られていて、今だとれいこがやはりピカイチな気がします。次点はあーさかな(そしてこれまた私はあーさに今のところ興味がないのであった…私の好みの顔というのは、だからちょっとこういう基準とは違うところにあるのだ。なんせ最愛の顔は響れおなだ)。だから本物の美人が本気でカッコつけてこういうベタにカッコいい仕草、ポーズ、アクションをしてくれることが大事なんですよ、そのありがたみをひしひしと感じました。もうのっけから拝みそうでした。コートの紐を解き出すところとか、前回ママなんだけど色気ありすぎて何事かと立ち上がりそうになりましたもん!
 続く場面の、ターバンからお髪がこぼれたバージョンももう眼福で眼福でうっとり…だったんですけれど、本当はここはもっとくらげちゃんとセットで愛でなければいけなかったんですね。つまりここは単なるプロローグのレビューチックな場面というよりは、この夏のラッチマンとカマラのキャッキャウフフの幸せな恋を表現していたくだりなわけで、それをきちんと把握しておかないと、あとのふたりは本編ではずーっとすれ違って「ボタンの掛け違い」を演じているので、本当はどうなるはずだったんだっけ、何を求めてるんだっけ、ってのを観客は見失いがちになるからです。そら追っかけっこもしようというものです。
 さらにはありちゃんセンター場面。ありちゃんの脚の上げ方は90度でも135度でもぴたりと正確で実に清々しく、美しい。強めの色気を発揮しているのも良き、でした。そしてすぐぱるに気づく私…イヤでっかいから、とかじゃなくてなんか好きでもうセンサーあるんですよ私…

 さて本編に入ってからも、「こっぱずかし」いくらいのベタベタな登場の仕方をするれいこラッチマンですが、でもそのベタが大事なのそれをド美人が大真面目にやるからいいのよ、とまたまた震えましたね…! まず声、鳴り物、そして扉からの登場! たまらん!! いやーベタ正義、そして本当に美は正義。
 しかし一転してこってりした芝居のロイヤル・ホームドラマになると、まあこのインドというのは概念としてのというかイメージの、なんちゃってインドなのかなとは思うのですが、でもとにかく社会的な階級があることとか、王族だの家柄だの体面だの外聞だのといった事情があることは我々現代日本の観客にもよくわかり、カマラの苦しい立場と、しかし家族や望まれる在り方、職務、将来を考えてこの恋を捨てよう、捨てるからには相手に強く、つらく当たってきっぱり別れなくては…となるのは、とてもよくわかります。別にカマラが利己的すぎるとか理不尽だとかワガママだと感じる、とかはないと思います。
 さてしかしそうなると、いったいラッチマンの方は今までこの恋愛をどう考えていたのだろう、今後どうする気だったのだろう、という気がします。彼の本当の身分というものは別にあるわけですが、彼自身はそこに収まる気がなく、本当にその身分を捨てたいと思っているのだし、だから今もあえてとか嘘を吐いてとか偽って、というつもりではなく、ただどこの誰とも知れぬただのひとりの男として生きていて、ただ軍人としては有能できっちり務めを果たしているということには誇りを持って生きていて、それでたまたま出会ったマハ・ラジアの孫娘と恋に落ちた…でもそれは一夏の戯れなどで終わらせるつもりもなかったもので、彼は真剣にカマラを愛していたし、彼女からも愛されていると確信していて、だからいずれ良き時を選んで身分を明かし、その上で求婚するつもり…だったのでしょうか? その場合は、結果的に父ハリラム・カプール(蓮つかさ)が望んでいたような地位と身分に収まることも、視野には入れていたのでしょうか。親孝行にもなりますしね。つまり彼は相手のために自分の生き方を変えてもいいと思うくらい、彼女を愛していたのでしょう。まさか自分がずっと在野でいたいから彼女も王族から離脱してくれるはずだ、とは考えてはいなかったかと思います。愛しているからといって自分の生き方を相手に押しつけようとするような男では、なかったと思う。ヤダ、マジ惚れる!
 だから王室が移動してもついていくつもりだった。そう言ったし、一度は受け入れられた。なのに今、カマラは来るなと言う…なんかいい言い回しがあったんだよな、命令ではなく既定の事実みたいな…「あなたについてきてほしくないのです」と言いそうなところを「あなたには行かないでいただきます」って言うんだったかな? 謙譲語のようで命令、という…うわ、上手い台詞!と痺れましたね。てか脚本が欲しい…
 カマラの嘘の愛想尽かしがまた絶妙で、きっぱり別れるために徹底的に言うワケです。そもそも身分が違うし、そもそもこっちは本気なんかじゃなかった、何を思い上がっているのか、と。これに騙されちゃうラッチマンが可愛いんだよね。家族につきあいを反対されたのだ、だから無理にこんなふうに言うのだ…という発想ができないのは、ちょっと驚きです。彼が身分差というものを気持ち軽く考えていた、というのはあるかもしれませんが、思うにインディラはアルマがこうまで騒ぐまでは、一夏だけのこととある種容認していたのでしょうし、カマラの分別を過信していたとも言えますが、なのでわりとラッチマンに対しても好意的に振る舞っていたのかなあ。アルマですら今こうして騒いでるのは遠乗り(でしたっけ?)に誘ったのを断られた腹いせなだけで、夏の間は目がハートだったのかもしれません。しかしラッチマンは賢明なので、ド平民の自分が恋人として彼女の家族にすんなり受け入れられるだろうと思っていたわけはさすがにないと思うんですよね。でもじゃあどんなビジョンを思い描いていたのでしょう? 思うに、彼も男なので、そして男ってのはしょーがないものなので、たとえばカマラが思い詰めて駆け落ちしましょう、私と逃げてどこかでひっそりともに暮らしていきましょう、みたいなことを言い出したときには、身分を明かし、逆プロポーズするくらいのことを想定していたのかもしれません。ずうずうしいですね、都合がいいですね。なのにカマラの方からこんなことを言われて、逆上し、そしてそもそも本当に愛されていなかったのだろうか?彼女は俺が愛した優しく清純で聡明な女などではなく、高慢で人の心を弄ぶ残忍な女だったのだろうか?という疑念がわいちゃったのかもしれません。アサコは低く見下されてカチンときてキレてやっちゃった、ように見えなくもなかったのですが、れいこちゃんはとにかく悪い人に見えなかったところがよかったのかもしれません。顔がいいしモテモテなんだけれどそれは当人の与り知らぬところで、中身はわりとフツーの男で、ただフツーにカマラに恋をしただけの、まあちょっと茶目っ気を持っていつ真実を告白するか企んでいただけの男、というような。そしてほとんど初めてと言っていいくらいに真剣に恋をした、だからこそ「愛していない、いなかった」と言われて、自分が相手に足る男ではなかったのかもしれないと自信を失い、また相手を見る自分の目を疑い彼女の真意を疑う疑心暗鬼に、陥ってしまったのかもしれません。
 愛は容易に憎しみに転じます。そこで終わればただ別れるだけですんだかもしれないところに、ラジエンドラ騒ぎが起きて、おまえこそその前科者だろうと決めつけられ、口止め料の額を言え、と居丈高に言われて、彼はついにキレてしまったわけですね。そして言う、要求するのは金品ではない、と…
 ひー! いやーひどい、ホントひどい。ここでこれを要求することを思いつくことがひどい。てかそんなホン書く菊田一夫がひどい。マジ天才。それは愛していれば自然と望んだことと同じものなのだけれど、でもこの流れで言うのがひどい。それでも、そういう形ででも確かめたいと思っちゃうくらいラッチマンはカマラを愛していた、ということなんだとラッチマン側に立てば思う。でももしもっと好みの娘役がカマラを演じていて、カマラ側から見ていたらホントたまらなかったと思います。愛し合って、いつか自然としたかもしれないこと、を無理やり、させられる。自分が愛していたと思っていた男は幻の偽者だったようだし、男はハナから自分を騙すつもりで近づいてきたのであり、自分を愛してなどいなかったし今も愛していない。ただ快楽を得るため、そしてこちらに屈辱を与えるためだけに要求している。でも自分は家族の名誉を守るためにその要求を呑むしかない…
 インディラもクリスナもまたひどいんですよね。この時代のこの国のこの階級の貞操観念がどういうものかくわしくは知りませんが、おそらくは結婚するまで女は処女なのが当然で、それこそが女の名誉、って世界ですよね。なのに、そんなものはくれてやればいい、黙っていればいい、露見しなければいい、すれば口をつぐむというならさせてやればいい、そうして名誉を保ち涼しい顔で今後も生きていくのだ、それが貴族のさだめだ…というようなことを暗にカマラに言うワケです。すげえ。イヤもちろん彼らも大なり小なりそうして何かを犠牲にして生きてきて今がある、ということだとは思うのですが。
 それでカマラは、殉教者のような思いでラッチマンのところに赴く。ここの会話での「命」の用法を私は他に知りませんが、本当に素晴らしいと思いました。カマラは人形になって、抜け殻の身体を与えるだけ、心は与えない、魂は汚れない…そう思い込もうとして、でも怖いものは怖いし悔しいものは悔しい。かつて心底愛したと思った男と同じ顔の男は、今は唇をゆがめて笑っている。「来るんですか、来ないんですか」とまるでこちらに選択権があるかのように言う。実際は向こうが強要しているだけだというのに。結局は引きずられるようにして湖に浮かぶ船に連れ込まれてしまう…あのラブホもかくやという円形ベッド(言い方…)は、船の中なんだそうですね。ラッチマンがターバンを解きカマラの帯を解くあの場面名こそ「ダル・レークの恋」というのでした。
 本当はここで、キスされたら嬉しくて力が抜けちゃって、とか、やっぱり好きだから受け入れちゃって気持ち良くて、というのは現実的には異論が多いにあるところです。同意なき性行為はすべてレイプです。あまりにつらすぎるので、愛ゆえだ、とすり替えて自分を守ろうとする、という心理はあるかもしれません。ストックホルム症候群みたいなものも。けれど本当なら気持ちいいとか感じちゃうとかあるわきゃない。性器が傷つけられるだけでなく、心と魂の殺人です。本当はお互い好き合っているので、というのは免罪符にはなりません。お互いがそれを承知していないからです。
 だから私は、たとえばカマラの抵抗がなくなることでラッチマンが彼女の真意に気づけたのなら、つまり彼女は俺をやっぱり愛しているんだと確信できたのなら、そこでそれ以上の行為をやめるのが筋なんじゃなかろうか、と考えは、したのです。それが筋だろう、ねじれた道を正し、しかるべきときにしかるべき道筋でまたここに来られるよう、今は引き下がるというのが正しい行動だろう、それが紳士の、誠意ある人間の取るべき行動だろう、と思う。
 でも男ってバカだから、愛されてるとわかって嬉しくなっちゃってなおさら舞い上がっちゃって止まらなくなる、っての、あるんだろうな、とも思っちゃうのです。そしてなお悪いことには、自分がラジエンドラだと認める嘘なんか吐くのが悪くてそれが完全な駄目押しになっちゃったのに、最初に彼らに犯罪者だと決めつけられたことが本当に悔しくて、股間違った沽券に傷がついたと思っていて、その腹いせでならホントに悪いことやったるで!ってなる幼稚で愚劣な精神性が絶対に男にはある、と思う。「♪悪いことがしたい」(by『BADDY』)ですよ、コドモなんです。傷ついたから傷つけ返してやる、という幼くて愚かな意地。そして嗜虐心にも火が点く。こうして犯罪は起きるし戦争も起きるんだな、とマジで思う。
 それを、そういう人間の、男女の、愚かさや弱さを、ある種の欺瞞のようにこうして美しい愛の場面として描く宝塚歌劇を、だから私は愛しているのかもしれないな、と思いました。そこには人間を愛しむ視線があります。現実にリアル男子にこんなことやられたら「ケッ」だし、男優が演じる物語として見ても「ケッ」かもしれない、けれど男役が娘役相手に演じる宝塚歌劇でのみ、愛と真実の物語として成立する…振り付けが美しいとか、そういうこともありますが、その前のくだりの台詞のやりとり含めて、そこに描かれる心理ドラマが、人間なるものの描写がすさまじい。哲学があり、哀しみと愛がある。こういう場面だったのか、こういう物語だったのか…と震えましたね。それはれいこちゃんのラッチマンが、たとえ自信たっぷりの雄々しい武者ぶりだろうと、けっして傲慢で高飛車な人間ではなく、真剣な恋愛に対して自分にその資格があるかを内省するかのような謙虚さや繊細さや聡明さを持つ人間として存在してみせているからこそ、この解釈が成立しこの展開が納得できたんだと、と私は思いました。
 そして何より凶悪なほどの色気と美しさよ…ほっそりしていて過剰な生々しさのないくらげちゃんの身体を撫で回す、美しく凜々しいれいこ、そして暗転…恐ろしい……

 ラッチマンがハイダラバードに行っちゃうのは、まあチャンドラと再会させないといけないお話の都合、というのもありますが、いかにも男の未練って感じで実にイイですよね。そしてペペルと、過去の因縁話と…という展開も見事だと思います。1幕ラスト、幕が下りてくるときスタオベしたくなっちゃいましたよカッコ良すぎてベタすぎて! ここ、今は客席降りが使えないからというのもありますが、前回の全ツ特有サービスみたいな演出より断然いいと思いました。
 そしてありちゃんペペルは私にはもの足りなかったかなあ…映像しか見ていないくせに大空さんペペルが大好きすぎるせいもあるかもしれませんが。でも『出島』もちょっと足りないなと感じたんだよなあ…それはともかく、ラッチマンとペペルの似て非なる生き様の描写、とか菊田一夫マジ天才!ってまた思います。別にペペルの方が小悪党だとかそういうことではないと思うんですよ、方向性が違うキャラなんですよね。現にジャスビル(礼華はる。めっちゃ好きで気になっているんだけれど、どうもなかなか上手くならない気が…だってこれ演技でやってるんじゃなくない? たとえばココれんこんだったらもっと効いてきたっぽくない? てか今回れんこんもったいなくない? いや『ピガール』でのもったいなさも大概だったけど、もうこっちの役しか振らないの…?)をぐるぐる巻きにしておきながら「逃げやしねえよ」みたいに言えるってのには、思わず惚れそうになりました。てかコレを書く菊田一夫マジ天才(何度でも言う)。そして「どうせこの世は」は人生のテーマソングにしたい歌のひとつですね、あっかるいケセラセラ感が素晴らしいです。
 で、ラッチマンが犯罪者ラジエンドラなんかではなかったことはもちろん、ベンガルのマハ・ラジアの跡取り息子だということが判明して、俄然色めきだつアルマが可愛い(笑)。クリスナとはお見合いなのかしら、幼馴染みで小さい頃から親同士が婚約させてて、とかもいいな。どんな恋愛をしたのかしら…てかちゃんと副組長なっちゃんの夫に見えるおださん研30の貫禄よ! 梅芸ペペルがめっちゃ楽しみです。
 でもこのクリスナ、単なる事なかれ主義の王様という感じではなくて、深くて、よかったなー。最初にカマラをラッチマンのところに行かせようとしたときにも、貞操や純潔よりも貴族の名誉を重んじてああ言ったのではなくて、カマラが本当は本当にラッチマンを愛していたことを察していて、ラッチマンの正体がアレで恋は破れたにせよ、思い出を作っておいてもいいのでは…という配慮があるように私に感じられました。そして逆にラストは、カマラをラッチマンのところへ行かせたけれど、ラッチマンは旅立ってしまうのだろうなと予見していた感じがしました。達観というのともまた違うかもしれませんが…そういう人生観の持ち主、とでもいうのかな。るねっこはもっとおっとり作ってくるのではないかしらん、あひちゃんはそんな感じでしたよね。
 で、そのとおり、犯罪者でもなくふたりに身分の差もないことがわかった、でもだからってハイそうですかと元に戻れるものではなくて、「壊れたものは、壊れたものさ」なワケですね(てかれいこちゃんはバトラー船長もきっと似合う…あの髭…あの白スーツ…もう見えるわ……)。というか私はここで『カサブランカ』でリックが最後にイルザに言った、「明日は後悔しないかもしれない、明後日もしないかもしれない、でもいつかきっと絶対後悔する」みたいな台詞が脳裏をよぎりましたね。小さなボタンの掛け違い、だったのかもしれないけれど、やはり掛け直せばいいというものではない、人の心はそんなに単純なものではない、という真実…
 そしてラッチマンとしてはやはり、そもそも自分のスタートのさせ方が悪かったのだ、という忸怩たる想いがあるのだと思います。今までも、今でも、カマラを真実愛しているからこそ、この顛末とさせてしまった自分を自分で許せない。その責任を取るためにも、彼女と別れて身を退こうと考える。自分が不幸になることで償おうとする。彼なしではカマラもまた不幸なのに。カマラとともに生きることで、ともに生きて幸せになることで償おうとする発想は、残念ながら、ない…こういう逃げ方、すごく男あるあるな気がします。女のために、愛のために、自分のメンツやプライドを捨てきれないんですよね。
 構造としても『カサブランカ』と同じだな、とも思いました。本質的には両想いである。しかし男は女の幸せのために、と言いつつ自分の、恋とは別の野望や理想のために、別の道を選んで女を残して去っていく、というパターンです。これまた「ケッ」ですよ、酔ってんじゃねーよ、ホントに愛してるなら最後までつきあえよ面倒みろよ責任取れよ、と言いたいです。でもこれも、宝塚歌劇だからこそロマンとして成立していると思うのです。あと、観客はほぼほぼ女なので、男のひとりやふたりに去られても実は女は意外と平気だということを知っている、というのもある…これは世の男どもにはナイショの真実です。男は、こうして旅立つ俺カッケー、と思って酔っている。そしてそういう物語を量産している。女は取り残されてよよと泣くけれど、次の男との出会いをもう夢想している、みたいな…同じ物語を男女違う形で消費しているのが、この世というものなのかもしれません。
 最後のパリの場面は蛇足ではなく、概念としてのラストシーンなので、いいのです。あああるべきなのです。カフェの女主人(楓ゆき)が効いています。そして再び歌われる主題歌「まことの愛」…「♪もう一度君の心を教えて欲しい」って、こっちの台詞だっつーの、ってなります。カマラは愛してる、愛してほしいって言ったじゃん。私たちは愛してる、愛してほしいっていつもいつも男に言ってるじゃん。心を明かしてくれないのは、言葉にしてくれないのはいつも男の方じゃん。そしていつも勝手にカッコつけて去っていく…バカヤロー!って叫びたくなるんですよ。でも男役が歌うから惑わされちゃうの、そして許せちゃうのです。
 別れに際してもアサコはあまり苦しんでいるように見えなくて余裕綽々で、ミホコだけが泣きわめいているように見えた気がするんだけれど、今回はれいこちゃんも対等に苦しんでいて、くらげちゃんも対等に耐えているように見えました。ふたりとも硬質な持ち味で、抑制が効いて、けれどそこからほの見える情熱の炎の熱さがまた対等で…というのが現代的で、とてもよかったのかもしれません。

 宝塚歌劇が男女の理想を描いている、というのはこういうことだと思います。なんせ数として世には異性愛者が多いので、そして人間同士の関わり合いには恋愛以外にもたくさんの形がありますが、それでも恋愛はわけても濃く大きなものなので、男女の恋愛を主な題材に、人間の真実と理想を描いているのです。いつか、男が心を明かし女のもとに留まり女とともに幸せに生きていってくれることを、信じ、願いながら、今はそうならない悲劇を描く。でも望みは捨てない。男はいつか変わってくれるはず、気づいてくれるはず、そして男女はともに幸せになれるはず、と信じている。その信仰にも似た希望を、理想を、描いているんだと思います。それを愚かだと私は思わない、思えない。だから私は宝塚歌劇を愛しているんだと思います。実際には男は変わらないし女は別の形ででも幸せになれるし人類はゆっくりあるいはもしかしたら急転直下で滅びに向かっているのだと考えながらも、この美しい夢に浸ることをやめられないのです。
 観客は女性ファンが大半で、だから男役がトップスターなのであり、けれど生徒全員が女性なのであり、十年一日どころか百年一日、男女の愛の物語を紡ぎ続けている宝塚歌劇を、だから私は愛しているのでした。
 そしてその存在意義を体現できる、説得力ある、圧倒的な美貌と芝居力のあるトップスターに、れいこちゃんはなれる、と確信しました。歌も上手い、何より声がいい。てか柔らかい開演アナウンス、震えましたね。ダンスはまあフツーかと思いますが、デュエダンでさすがくらげちゃんが上手くて相手をより素敵に見せていたので、そういうことです。周りがいるからトップなんだし、十分だと思う。ご本人は、真の美人ってホントそういうところあるよねって感じなのですが綺麗と言われるよりおもしろいと言われると嬉しいようで、この日のカテコで「悲しいお話でみなさんお疲れでしょうから…」と語り始めたときには、この深く濃い物語を「悲しいお話」ってまとめる主役すげえな!?とまず仰天しましたが、そこからのまさかの「私の渾身の一発芸で締めたいと思います」発言には待って待ってそういう芸風でいくことにしたの!?と動揺し、からの「みなさま、また会う日までさようなラッチマン!」には組子ならずともドリフばりにコケるっつーの!と大笑いしてしまいました。はーたまらん、はーカワイイ。あれは「れーこ」だった、れこたんでした。これをもって今後この作品は『ダルれーこ』として確立されそうな気がします。

 ずっとニマニマしていてマスクの中でカバーが盛大にズレたフィナーレについては、また次回。その他の出演者に関してもまた次回、ねちねち書きたいと思います。
 はー、チケットどっかからこぼれてこないかなー、また観たい! 浸りたい!! お声がけ、お待ちしています(笑)。






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