紀伊國屋サザンシアター、2021年8月19日19時。
作/井上ひさし、演出/鵜山仁、美術/堀尾幸男。
市川辰三/内野聖陽、五月洋子/有森也実。
二年前にも同演出、同キャストで上演しているそうです。私はそのときは何故、行けなかったのだろう…記憶がナイ…
そしてタイトルは、そもそも女座長の一幕ものの『化粧』という作品があり、それを二幕仕立てにして『化粧二幕』とし、それをさらに改訂して男座長の物語を加えたのが『化粧二題』となるそうです。休憩なし一時間半の舞台で、前半は女座長の、後半は男座長のひとり芝居。間にうっすら暗い中で黒子がセットチェンジをします。大衆演劇を舞台とした、いわゆる母子もの…と言ってしまえるかと思います。そもそも、ひとり芝居で母ものを、という趣向で書かれた作品のようです。その勝利かな。
前半は90年代なかばの設定らしい…とプログラムの寄稿にあるのですが、私には昭和の物語に思えました。でもそれは、私が実際の大衆演劇にミリも触れたことがないからだと思います。梅沢富美男は知っているけれどチビ玉三兄弟ブームについては「はて…?」で、今も早乙女兄弟は客演舞台で観ていても、彼らの母体?の劇団での公演は観たことがないからです。ところでこの寄稿のラストは大衆演劇と大衆文化の関わりについてということで宝塚歌劇と大衆演劇の相同性に触れているのですが、これも個人的にはピンときません…私はSNS絡みとはいえヅカ友がざっと二百人はいると数えていい気がするのですが、大衆演劇にもハマった、という域に達している人はひとりしか知りません…観に行ったことがある、という域でも数人程度かも。もちろん単に話題に出ないだけで私が知らないだけなのかもしれないのですが…そんなわけで私としてはだいぶ遠い世界の出来事のような気がするのですがしかし、実はバブル前後の物語でありその時期に書かれ初演されたものなのだ…というのは、言われてみればそうかもな、と思わなくもないのでした。それくらい、混沌とした過渡期だったのだと思います、あの時代は。
しかし私は貧しいながらも都会の共働きの核家族に育ち、まあまあ親の情愛をちゃんとかけられて育ったので、ぶっちゃけこういう母子ものにはピンとこないのでした。こういうのの「子」ってたいてい息子のことだから女の身としてはそこもピンとこないし、そして私は今やいい歳の女なのですが「母」にもなっていないのでそっち側もピンとこない。どの立場で観ていいのか、どう共感していいのかよくわからず、よりファンタジックに感じてしまうのかもしれません。
でも、開演前の楽屋が舞台で、役者が化粧や衣装の支度をしながら、共演者と芝居を合わせたり代役に口立て稽古をつけたりそこに来客を迎えたり…といった形で進むひとり芝居には、なのでどちらかというとバックステージものとして魅了されました。
女座長は男役として、母子ものの「子」の立場になる主人公として舞台に出ようとしている。でもその芝居に、自らが幼い息子を捨てたことを重ねているのではないか、とテレビ記者につっこまれる。一方で男座長の方は、やはり男役として母子ものの子の立場になる主人公として舞台に出ようとしていて、しかしかつて身を寄せていた孤児院の院長に、母親が客席に来ていると告げられる…
前半と後半には確かに時代の差、年月の経過が感じられなくも、ありません。でも洋子の捨てた子が辰三だ、というダイレクトさも、どうもない、気がしました。イヤ私がなんか見落としていただけだったらすみません。でもねじれているような、パラレルワールドのような、そんなふうに観てとれました。あるいは辰三は、洋子が息子を預けたのと同じ孤児院で育っただけの、全然別の孤児であるような? けれど要するに、それくらい普遍的に、女が子を捨てなければならない現実というものはあり、それでも母も子もお互いを忘れたことなどなく生きていくものでしょ、という事実だけがただこの舞台に横たわる…というような。そこに、化粧をして、別人になって、けれど舞台で真実を演じる、という役者の業が絡むような…そんな物語なのかな、と思いました。
そして女座長は、記者の言葉を振りきって舞台に出ていく。一方で男座長の方は、舞台を放り出して客席にいる母親の方に飛んでいく…という話のように、私には見えましたが、それもなんか違っていたらすみません。男座長が楽屋を飛び出していくのと同時に、楽屋の後ろの壁のようだった垂れ幕が落ち、その向こうにちょうど裏表になった女座長の楽屋が覗けて、そこに呆然としたように佇む女座長の姿が見える…で、幕、です(イヤ幕は降りず暗転でしたが)。そういう舞台でした。
装うこと、偽ること、演じること、けれどそれが常に真実を伝えてしまうこと。そういうことを描いた作品なのかな、と思いました。
有森也実は私のふたつ上、内野聖陽はひとつ上です。ふたりに歳の差がほぼないのもミソ。普通にしていたら別に親と子になんか見えないふたりで、だからこそ前半と後半にタイムラグがあるのかなとも感じさせる、でも決してスムーズにはつながらない、そういう構造の物語なのかな、と思いました。ちあきなおみの歌がまたいい仕事をしています。
そしてそういう、子を捨てた過去があってもいいくらいの歳の私でも、子の立場で考えたらもし親を知らなければ未だ知りたいと思い続けていることだろうと思いますし、今ふいに「おまえの本当の親は別にいるんだよ」とか言われたらものすごく動揺するだろうとも思います。そういう意味で、いくつになっても親は親で子は子なのでしょう。とても重い関係なのだと思います。
そして結局、産みの育てのといったときに常に問題になるのは結局のところ常に母親です。種だけの父親なんて問題にもなりゃしません。だからこそ、この場合の「子」は息子なのでしょう。娘はもう別の子の母になっているかもしれないのですから。娘はそれで違うフェーズに至れる。けれど息子はたとえ別の子の父になっても、そんなこととは別に常に自分の母を求め続けるものなのでしょう。「お腹を痛めた」というのはそれほど重い。あまりにも動物的すぎる行為だからこそ、なお。
フェミニズム的にいえば、女が子を捨てざるをえない社会が変わらない限り繰り返される悲劇だね、早くどーにかしてくださいよ男社会の男さんたちー(棒)、という呼びかけをするより他にできることはないな、という感じではあります。そんな男さんたちがこういう作品を観て酔ったり泣いたりただしているだけなのかと思うと思わず「ケッ」と言いたくなります。そして残念ながら初演から三十年がた経っても世の中はどうも良くなっていないのです。若い女が望まない妊娠をさせられて産んで死なせて罰せられて種の男の罪は問われず、女が病に罹って国に見捨てられ自宅で早産させられて赤ん坊を死なせて国からなんのフォローもない、そんな現実です。さすがの作者もそんな未来を想定してこの物語を書いたのではありますまい…実に不幸なことです。
もうちょっと前の、一瞬豊かになりかけた時代であれば、プログラムの対談にもあった、武装としての女装とか、そうやってのびのび生きる地平を切り開く女たちの姿が舞台から見えた…かも、しれません。でも、今、残念ながらそれどころじゃないよね…
ただ、マスクのおかげで化粧をしなくてすむようになったとか、リモートワークで通勤しなくなったので社交辞令的なハイヒールとかも履かなくなった、着るものが俄然カジュアルですまされるようになった…という瓢箪から駒、みたいなのは、あります。このあと無事に生き延びられたら、そしてヘンなバックラッシュがなければ、女たちにとっては良き前進であった…と総括されることになるのかもしれません。
そういう、たまたまでも、あるいはゆっくりでも、良くなっているのだ、進化しているのだ、いつかみんなが幸せになるのだ…ということを、信じたい、という想いはあります。そういう願いを見つけるために、あるいは再認識するために、私たちは常に舞台に、小説に、漫画に、映画に、つまり物語なるものに触れようとしているのかもしれません。
あたりまえですが役者ふたりはとても達者で、色気も愛嬌もあって素敵でした。
次は「雨」を観ます。今度は世田パブだし、大芝居なのかな? 楽しみです。
作/井上ひさし、演出/鵜山仁、美術/堀尾幸男。
市川辰三/内野聖陽、五月洋子/有森也実。
二年前にも同演出、同キャストで上演しているそうです。私はそのときは何故、行けなかったのだろう…記憶がナイ…
そしてタイトルは、そもそも女座長の一幕ものの『化粧』という作品があり、それを二幕仕立てにして『化粧二幕』とし、それをさらに改訂して男座長の物語を加えたのが『化粧二題』となるそうです。休憩なし一時間半の舞台で、前半は女座長の、後半は男座長のひとり芝居。間にうっすら暗い中で黒子がセットチェンジをします。大衆演劇を舞台とした、いわゆる母子もの…と言ってしまえるかと思います。そもそも、ひとり芝居で母ものを、という趣向で書かれた作品のようです。その勝利かな。
前半は90年代なかばの設定らしい…とプログラムの寄稿にあるのですが、私には昭和の物語に思えました。でもそれは、私が実際の大衆演劇にミリも触れたことがないからだと思います。梅沢富美男は知っているけれどチビ玉三兄弟ブームについては「はて…?」で、今も早乙女兄弟は客演舞台で観ていても、彼らの母体?の劇団での公演は観たことがないからです。ところでこの寄稿のラストは大衆演劇と大衆文化の関わりについてということで宝塚歌劇と大衆演劇の相同性に触れているのですが、これも個人的にはピンときません…私はSNS絡みとはいえヅカ友がざっと二百人はいると数えていい気がするのですが、大衆演劇にもハマった、という域に達している人はひとりしか知りません…観に行ったことがある、という域でも数人程度かも。もちろん単に話題に出ないだけで私が知らないだけなのかもしれないのですが…そんなわけで私としてはだいぶ遠い世界の出来事のような気がするのですがしかし、実はバブル前後の物語でありその時期に書かれ初演されたものなのだ…というのは、言われてみればそうかもな、と思わなくもないのでした。それくらい、混沌とした過渡期だったのだと思います、あの時代は。
しかし私は貧しいながらも都会の共働きの核家族に育ち、まあまあ親の情愛をちゃんとかけられて育ったので、ぶっちゃけこういう母子ものにはピンとこないのでした。こういうのの「子」ってたいてい息子のことだから女の身としてはそこもピンとこないし、そして私は今やいい歳の女なのですが「母」にもなっていないのでそっち側もピンとこない。どの立場で観ていいのか、どう共感していいのかよくわからず、よりファンタジックに感じてしまうのかもしれません。
でも、開演前の楽屋が舞台で、役者が化粧や衣装の支度をしながら、共演者と芝居を合わせたり代役に口立て稽古をつけたりそこに来客を迎えたり…といった形で進むひとり芝居には、なのでどちらかというとバックステージものとして魅了されました。
女座長は男役として、母子ものの「子」の立場になる主人公として舞台に出ようとしている。でもその芝居に、自らが幼い息子を捨てたことを重ねているのではないか、とテレビ記者につっこまれる。一方で男座長の方は、やはり男役として母子ものの子の立場になる主人公として舞台に出ようとしていて、しかしかつて身を寄せていた孤児院の院長に、母親が客席に来ていると告げられる…
前半と後半には確かに時代の差、年月の経過が感じられなくも、ありません。でも洋子の捨てた子が辰三だ、というダイレクトさも、どうもない、気がしました。イヤ私がなんか見落としていただけだったらすみません。でもねじれているような、パラレルワールドのような、そんなふうに観てとれました。あるいは辰三は、洋子が息子を預けたのと同じ孤児院で育っただけの、全然別の孤児であるような? けれど要するに、それくらい普遍的に、女が子を捨てなければならない現実というものはあり、それでも母も子もお互いを忘れたことなどなく生きていくものでしょ、という事実だけがただこの舞台に横たわる…というような。そこに、化粧をして、別人になって、けれど舞台で真実を演じる、という役者の業が絡むような…そんな物語なのかな、と思いました。
そして女座長は、記者の言葉を振りきって舞台に出ていく。一方で男座長の方は、舞台を放り出して客席にいる母親の方に飛んでいく…という話のように、私には見えましたが、それもなんか違っていたらすみません。男座長が楽屋を飛び出していくのと同時に、楽屋の後ろの壁のようだった垂れ幕が落ち、その向こうにちょうど裏表になった女座長の楽屋が覗けて、そこに呆然としたように佇む女座長の姿が見える…で、幕、です(イヤ幕は降りず暗転でしたが)。そういう舞台でした。
装うこと、偽ること、演じること、けれどそれが常に真実を伝えてしまうこと。そういうことを描いた作品なのかな、と思いました。
有森也実は私のふたつ上、内野聖陽はひとつ上です。ふたりに歳の差がほぼないのもミソ。普通にしていたら別に親と子になんか見えないふたりで、だからこそ前半と後半にタイムラグがあるのかなとも感じさせる、でも決してスムーズにはつながらない、そういう構造の物語なのかな、と思いました。ちあきなおみの歌がまたいい仕事をしています。
そしてそういう、子を捨てた過去があってもいいくらいの歳の私でも、子の立場で考えたらもし親を知らなければ未だ知りたいと思い続けていることだろうと思いますし、今ふいに「おまえの本当の親は別にいるんだよ」とか言われたらものすごく動揺するだろうとも思います。そういう意味で、いくつになっても親は親で子は子なのでしょう。とても重い関係なのだと思います。
そして結局、産みの育てのといったときに常に問題になるのは結局のところ常に母親です。種だけの父親なんて問題にもなりゃしません。だからこそ、この場合の「子」は息子なのでしょう。娘はもう別の子の母になっているかもしれないのですから。娘はそれで違うフェーズに至れる。けれど息子はたとえ別の子の父になっても、そんなこととは別に常に自分の母を求め続けるものなのでしょう。「お腹を痛めた」というのはそれほど重い。あまりにも動物的すぎる行為だからこそ、なお。
フェミニズム的にいえば、女が子を捨てざるをえない社会が変わらない限り繰り返される悲劇だね、早くどーにかしてくださいよ男社会の男さんたちー(棒)、という呼びかけをするより他にできることはないな、という感じではあります。そんな男さんたちがこういう作品を観て酔ったり泣いたりただしているだけなのかと思うと思わず「ケッ」と言いたくなります。そして残念ながら初演から三十年がた経っても世の中はどうも良くなっていないのです。若い女が望まない妊娠をさせられて産んで死なせて罰せられて種の男の罪は問われず、女が病に罹って国に見捨てられ自宅で早産させられて赤ん坊を死なせて国からなんのフォローもない、そんな現実です。さすがの作者もそんな未来を想定してこの物語を書いたのではありますまい…実に不幸なことです。
もうちょっと前の、一瞬豊かになりかけた時代であれば、プログラムの対談にもあった、武装としての女装とか、そうやってのびのび生きる地平を切り開く女たちの姿が舞台から見えた…かも、しれません。でも、今、残念ながらそれどころじゃないよね…
ただ、マスクのおかげで化粧をしなくてすむようになったとか、リモートワークで通勤しなくなったので社交辞令的なハイヒールとかも履かなくなった、着るものが俄然カジュアルですまされるようになった…という瓢箪から駒、みたいなのは、あります。このあと無事に生き延びられたら、そしてヘンなバックラッシュがなければ、女たちにとっては良き前進であった…と総括されることになるのかもしれません。
そういう、たまたまでも、あるいはゆっくりでも、良くなっているのだ、進化しているのだ、いつかみんなが幸せになるのだ…ということを、信じたい、という想いはあります。そういう願いを見つけるために、あるいは再認識するために、私たちは常に舞台に、小説に、漫画に、映画に、つまり物語なるものに触れようとしているのかもしれません。
あたりまえですが役者ふたりはとても達者で、色気も愛嬌もあって素敵でした。
次は「雨」を観ます。今度は世田パブだし、大芝居なのかな? 楽しみです。