映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

サウンド・オブ・ミュージック (1965年)

2019-12-10 | 【さ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv3582/

 

 ご存じ、ミュージカル映画の金字塔。

 修道女見習いのマリアが、妻に先立たれた7人の子持ちの貴族でイケメン大佐と相思相愛になり結婚、メデタシメデタシ……、とはならず、大佐がナチスに追われる身となり、一家は歌いながら(?)逃避行に、、、。果たして一家の命運は!?

 

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 午前十時の映画祭にて鑑賞。高校の英語の授業で見て以来だから、30ウン年ぶりだったのだけれど、、、、こんなに泣けるとは思っていなかった。この映画ってこんなだったっけ??と序盤に頭をかすめたものの、直後から、映画の世界にトリップしてしまいました。高校生の私は、何も分かっていなかったのね、、、。

 

◆薄っぺらい映画になりそうな要素てんこ盛りなのに、、、。

 いやぁ、、、こんなに涙が出るだなんて、不覚だった。

 ハッキリ言って、この映画は、道徳の教科書に出て来てもおかしくないような「健全かつ善意の塊」なお話で、本来の私の大好物である「不健全で悪意の塊」とは対極にある。おまけに、私の大の苦手分野、突然歌い出すミュージカル。しかも名曲ばかり。

 この、イヤミなまでに出来過ぎで“嘘臭さ”が放つものといえば、相場は決まっている。ドン引きなまでの偽善臭・欺瞞臭立ちこめる作品……のはずなのに、実際に本作を見てみると、、、あら不思議。何ということでしょう!!! 偽善も欺瞞もまったく感じない!!

 それどころか、私のような邪悪で汚れきった心を見事に浄化してくれるではないか!! 私が本作を見ながら流した涙は、私の心の澱を洗い流してくれたのか。

 ……なーんてことはもちろんないが。、、、でも、心洗われる、とはまさにこの映画のことを言うのだと、止まらない涙を拭きもせず、ただただ圧倒されていた。

 予定調和、先の読める展開なのに、退屈しないのは、やはり何といってもその素晴らしい音楽の数々にある。名曲ばかりが、これでもか!と続くが、音楽の持つパワーを本作ほど感じさせられたことはない。私は、基本的にあまり歌付きの音楽は聴かない方だが、本作で登場人物たちがそれぞれに歌う“歌”は、私の好みなど超越したものだった。ミュージカルで、歌を興醒めすることなく聴いていられるというのが、この映画の持つ不思議なパワーである。

 泣けたシーンはどこかというより、ほぼ全編にわたって、あちこちで泣いていた。中でも一番泣けたのは、もちろん、大佐が舞台上で「エーデルワイス」をギターを奏でながら歌うシーンだ。実話モノの完全なるフィクションとは分かっていても、あのシーンは感動的。もともと良い音楽が、あのような重い意味を持つとなると、胸に響くものがゼンゼン違う。

 音楽に負うところ大であるのは間違いないが、それと同じくらい本作が人を魅了するのは、そこに通底している、信仰と良心、そして信念だろうと思う。

 信仰も良心も、そして信念も、どれも一つ間違えれば他者への“押し付け”になるものだけれど、本作の中ではそのどれもが強固でありながら押しつけになっていないという、稀なる描写がされている。

 修道女たちは皆、マリアにはマリアに適した生き方があるという。男爵夫人は、大佐の愛を得られないと分かって、自らの進むべき道を悟る。大佐自身は、自らの信念を貫き、命を懸けて愛する国を棄てる。

 ここには、信仰と信念こそあれ、悪意も強制もなく、登場人物たちの行動は、言ってみれば良心の現れ。私のような屈折しまくった心にも、その良心は控えめでありながら真っ直ぐに届いたのだから、スゴイとしか言い様がない。

 さらに言えば、他力本願でないところがなお良い。厚い信仰心を持つ修道女たちは、神に祈ってさえいれば良いなどとは当然言わず、マリアに「自らの意思で道を切り開け」と諭す。

 ……などと、野暮な読み解きをしてみたものの、これらはほとんど意味がない。なぜなら、本作はそんな小理屈など蹴散らし、見るものを圧倒するパワーがあるから。だから、まあ、見てみてくださいな、そこのミュージカル嫌いのお方。

 

◆トラップ大佐とか、ガヴァネスとか、、、。

 クリストファー・プラマー、めっちゃエエ男! ……というか、渋い!! あんな7人の子持ちいるかよ、、、と内心ツッコミまくりだったんだが。彼の出演作というと、数年前に劇場で見た『手紙は憶えている』は結構面白かった。オチがひどかったケド。あの作品での彼は、もう、認知症の爺さんという設定で、見た目もすっかりヨボヨボになっていたんだけど、時々見せるキリッとした挙動に、トラップ大佐を思い出させるものがあったような。ピアノを弾くシーンも、実に様になっていた。

 本作での彼は、ギターを弾きながら「エーデルワイス」を歌う。登場シーンの強面から、後半、ほぼ“急変&激変”するのもご愛敬。マリアに思いを打ち明けるトラップ大佐もステキ。マリアじゃなくても、そら恋に落ちるわね。

 ちょっと田宮二郎に所々似ているなー、と思いながら見ていたんだけど、、、。

 ジュリー・アンドリュースは、もう、健康優良児そのもので色気のイの字もないんだが、まあ、マリアにはああいう感じがちょうど良いと思う。歌が素晴らしいのは、今さら書くまでもない。

 マリアはトラップ家に“ガヴァネス”として派遣されていたと、今回初めて知った次第。そっかー、ガヴァネスだったのねぇ。本作では、期限付き“家庭教師”だったが、実際のマリアは、修道院を辞めてガヴァネスとしてトラップ家に行ったということだから、、、こんなことを書くと本作の夢を壊すかもだが、マリアとしてみれば、最初からトラップ家に入ることを狙っていた可能性が高いだろう。

 “ガヴァネス”については、『回転』『ハイジ アルプスの物語』でも書いたので、ここでは割愛するが、学だけあって行き場のない中年女性にとって、生きる道は、財力あるバツ有り男の後妻になることくらいしかなかったのだ。

 マリアは当時20代だったというが、修道院も出て来た以上は恐らく、先行きは暗かったに違いない。トラップ家の主は、そんな彼女にとって一筋の希望となったと言っても、あながち間違いでもないだろう。

 本作の冒頭でセリフに頻繁に出てくる“governess”の単語を聞いて、そんなことがつらつらと脳内をよぎったりもしたけれど、それ以外のほとんどの時間は、本作の世界にどっぷり浸っておりました。

 

 

 

 

 

サントラ欲しくなっちゃった。

 

 

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