映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ボヴァリー夫人(1949年)

2015-07-22 | 【ほ】



 言わずと知れた、ギュスターヴ・フローベールの名作の映画化。

 真面目で平凡な町医者のシャルルと結婚したエマは、玉の輿に乗ったつもりであったが、結婚してみれば、夫はただの田舎者でつまらぬ男、上には上がいることを思い知る。

 エマは、こんな人生なのは、自分が女だからと思い込む。自由のない女だから。男ならば自分の人生を自分の意思で選べる。女である自分の最後の望みは男の子を生むこと! とシャルルの胸に泣き崩れる。・・・が生まれたのは女の子。絶望するエマ。

 しかし、念願だった貴族のパーティへの参加が叶い、そこであるイケメン貴族と出会い、ダンスで盛り上がり、、、。

 上昇志向の強い女の自業自得な自滅物語。

 
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 なぜ本作を見ようと思ったか、というと、現在公開中の『ボヴァリー夫人とパン屋』を見に行こうかなぁ、と思っていたからですが、本作を見て見に行くかどうかを決めようと思っていたわけではゼンゼンありません。一応、下敷きになったお話を知っておこうと、原作を読むより手っ取り早く映画で、と思いまして。

 この小説は、何度か映画化されており、最近では、ミア・ワシコウスカ&エズラ・ミラーによるものもあるようですね。日本では未公開みたいですが。また、クロード・シャブロル監督によるイザベル・ユペール版もあるのですが、まずはこちらから。イザベル・ユペール版は、また後日。

 ・・・というわけで、本作ですが。もちろん、原作は未読です。

 こういう、エマのような、他力本願で上昇志向強い系の女、ってのが、私はどうもかなり苦手でして、、、。まあ、自分の母親がそうだったからなんですが。見ていて、腹が立つとかムカつくとかではなく、ものすご~く冷めて見てしまいます。今どきの言い方を借りれば「ばかじゃね?」的な感じでしょうか。

 エマも言っているように、19世紀中盤であれば、なるほど女性の人生の選択肢は多くはなかったと思います。というか、限られていたでしょうね、非常に。だから、彼女は、男の力を借りて、自己実現をしようと足掻いたのです。ある意味、納得ですし、仕方ないと思います。こういう風に考える女性を責めることは気の毒でしょう。

 ただ、エマの場合、私が見ていて白けた一番の理由は、「自分の足元を見ていない」からです。上昇志向が強くても、他力本願でも、自分を客観視できる女性なら、シャルルとの結婚生活を充実させ、シャルルが退屈な男なら自分が自分の人生を豊かにするべく何かしらの努力をすることを考えると思うのです。そう、エマは「身の程知らず」なのです。

 いっそのこと、男を踏み台にしてのし上がってやろう、という壮絶な野心家なら、むしろ応援したくなるんだけどなぁ。でも、エマは、そもそもそんな器じゃないのです。彼女のすることと言ったらせいぜい、ちゃちな贅沢をするために蔑んでいる夫の名を借りて借金に借金を重ねて、その金で複数の男と不倫し、それらの男どもに騙され捨てられ、借金は返せなくなって身動きが取れなくなり、、、。そう、彼女はアッパーを望むには頭が悪過ぎたのです。いくら、女が抑圧された時代だからって、バカは時代のせいにはできません。ロマンス小説にばかり夢中でオツムの鍛錬を怠ったのは、誰あろう、エマ自身。しかし、彼女はそこに気付くことすらできない絶望的な頭の悪さなのです。

 こういう人が自滅するのは自業自得なんで何とも思いませんが、こういう人がいると周囲がものすごい迷惑を被るのが世の常なのですよねぇ。不条理の極みだと思います。本作でも、ラストでシャルルは無一文となります。原因を作ったエマは勝手にヒ素を飲んで自殺。何なんでしょう、この理不尽な展開は。夫は自分が選んだ妻だからまだしも、一人娘は可哀想過ぎです。私の母親も、周囲を散々な目に遭わせていたものでした、、、。肝心の本人は、自分だけが我慢を強いられた犠牲者、と思い込んでいるところなんか、エマとそっくりで、ますます白けてしまいました。

 と、エマをこき下ろしてきましたが、100歩譲って、エマはエマなりに努力したのだ、という風にも見られるな、とも実は思ったのです。彼女的には、精一杯、この不満だらけの現状を打破すべく足掻いたのですからね。足掻き方はともあれ、諦めて人生を無為に過ごしたりはしなかった。彼女に救いがあるのは、一人娘に自分の夢を託すということを考えなかったことです。飽くまでも、自己完結。自分の人生の不足は、自分の人生で補おうとしたこと、これが彼女の救いです。というか、見ていた私にとっての救いだったかも。

 夫のシャルルにはひどい接し方だったけれども、彼女の中では筋の通った行動だったのでしょう。自分の意思に従って生きる、何ものにもそれを遮ることなどさせない、という、、、。しかし、如何せん、彼女は自立できる人ではなかった、その能力も機会もなかった、ってことでしょう。修道院にいた間にお勉強しなかったんでしょうか、それが不思議なんですが。ロマンチック小説ばかり読みふけって、夢子ちゃんになってしまったんですかね、、、。自由を求めての行動が、あんな(といっちゃ悪いが、いささかレベルが低すぎる)男たちとの不倫、ってのがね、、、。あまりにも哀れというか。

 ところで、原作者のギュスターヴ・フローベールは、裁判中に「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったとか。ふむ、どういう意味でしょう。原作を読んでいないので分かりませんが、少なくとも、このセリフの「ボヴァリー夫人」=エマでないことだけは確かだと思います。「『ボヴァリー夫人』は私だ」なら、まだ分かるかも。この謎を解くためにも、やはり原作を読んでみるとするか、、、。

 あ、パン屋の方も、見に行こうと思います、時間があれば。







自由を求めた結果がつまんない男との不倫、、、。イヤだなぁ。




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