作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv79820/
以下、公式HPよりあらすじのコピペです。
=====ここから。
聖地マシュハドで起きた娼婦連続殺人事件。「街を浄化する」という犯行声明のもと殺人を繰り返す“スパイダー・キラー”に街は震撼していた。だが一部の市民は犯人を英雄視していく。事件を覆い隠そうとする不穏な圧力のもと、女性ジャーナリストのラヒミは危険を顧みずに果敢に事件を追う。
ある夜、彼女は、家族と暮らす平凡な一人の男の心の深淵に潜んでいた狂気を目撃し、戦慄する——。
=====ここまで。
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何かの映画を見に行った際に、チラシを見て「こりゃ見たい、、、」と思って、監督名を見たら、あの『ボーダー 二つの世界』のアリ・アッバシ。これは見るしかないでしょ、、、と、内容に気が滅入りながらも(じゃあ見るなよ、、、というツッコミはナシで)劇場まで行ってまいりました。
◆戦慄のラストシーン
娼婦は汚れた女だから抹殺して街を浄化することが神の意志である、、、って文字で書いているだけで気が狂っていると感じるのだが、そう感じない人々がいるらしい。
だいたい、娼婦が汚れた女って言うけど、娼婦だって相手が居なきゃ商売が成り立たないわけで、つまり、娼婦を買う「男たち」がいるから、彼女たちの身体はその男たちに消費され続けているわけなんだが。そんなに娼婦を一掃したいなら、買う男たちを一掃しろよって話。需要供給曲線なんだよ。何で売る方ばっかし罰することしか頭にないのか。
日本の売春防止法も、売春する側(=女)は犯罪者扱い、買う側は不問、、、という長いことえらく非対称な法律であった(一昨年改正されて、「困難な問題を抱える女性支援法」として今年4月施行)。これも、本作の背景にある思想と、根っこは同じだろう。
売春防止法が改正された背景は、売春に至る理由として、貧困やDV等があって、売春する側は生きるための最終手段として身体を酷使する労働に着かざるを得ない、、、ということがあるからだ。それは、本作で殺された娼婦たちもまったく同じであり、おそらく古今東西共通のものだろう。そういう根本的な問題を解消せずに、事象だけ追ったところで、世の中から娼婦はいなくなりませんよ、、、ってことが、ようやく日本でも認識され始めたようである。
本作はミステリー要素はなく、犯人は早い段階で分かるのだが、殺す場面をストレートに描いておりグロくはないが残虐である。犯人サイードは、殺す相手をバイクで物色して探し、ターゲットを定めるとその女性をバイクの後部席に乗せて、何と自宅に連れて来る。隙を見て、女性が被ることを義務付けられているヒジャブを奪い取って、それで娼婦たちの首を絞めて殺すという方法を繰り返す。
ある女性のときは、殺した後に予定より早く妻が帰宅してしまうのだが、サイードは絨毯に女性をくるむという雑な方法で女性の遺体を隠し、その横で、妻とセックスに及ぶという、、、まさにグロテスクなシーンもある。
警察の捜査も杜撰なのかなかなか犯人は捕まらないが、あまりにも同じパターンで殺人が繰り返されると、世間の注目度も下がって来る。新聞で事件の扱いが小さくなると、サイードは売店の店主に「何で事件の記事が載ってないんだ!」とかイチャモンつけてるんだが、文句言う相手違うやろ、、、と内心ツッコミ。結局、サイードは、神の意志なんか関係なく、自己顕示欲を満たすために娼婦殺しを繰り返していただけってことだ。
そういうサイードの内面もじわじわと描かれていくが、イラン・イラク戦争での従軍経験が背景にあるとされている。そこでも大した働きをすることができず、国はよくならなかったし、自分の暮らし向きも良くならない。自身の存在意義を否定されたような感情に、動機の根っこがあるということらしい。
……何であれ、結局、自分より弱い者を暴力で黙らせるしかできない、小心者の卑劣漢でしかないのだが、それが如実に描かれるのが終盤。どういうシーンかは敢えて書かないけど、こんな風に描くなんて、やはり、アッバシ監督はメチャクチャ意地悪である。判決どおりに死刑になっても、誰も救われないし、見ている者も全くカタルシスは得られない。
しかも、その後のラストシーンで、さらにアッバシ監督の曲者ぶりを見せつけられる。彼は、おそらく、故国イランを愛憎半ば、どちらかと言えば嫌悪しているのだろう。公式HPの彼のインタビューで「連続殺人犯の映画を作りたかったわけではない。私が作ろうと思ったのは、連続殺人犯も同然の社会についての映画だった」と言っている。ラストシーンは、まさにこの言葉通りのものとなっていて、何とも後味が悪い。
◆「連続殺人犯な社会」に生きるということ。
で、私が気になったのは、これだと、本作を見た人たちはイランを嫌いになってしまうんじゃないか、、、ってこと。特にラストシーン。
確かに、ヒジャブがきっかけで殺人事件まで起きている国であるから、正直なところ、あまり良いイメージはない。けれども、歴史を見れば、何もネガティブな感情ばかりに支配されるものではないし、宗教や文化、社会風習等というものは、外からはなかなか理解できない部分も多いのが当たり前である。
そうはいっても、実際にあった事件を元ネタにした映画、、、という宣伝文句では、これがリアルだと思ってしまう観客は少なからずいるはずだ。
アッバシ監督は、某全国紙のインタビュー記事で「この映画がイラン社会そのものを象徴していると受け止めないで。フィルムノワールだ」と言っているが、それはなかなか難しいだろう。イスラーム映画祭のTwitter(リンクは貼りませんのでご興味ある方は検索してください)でも、懸念のツイートがされていて、そらそーだよな、、、と思ったもんね。
ミソジニーは、何もイスラム社会に見られる特徴ではなく、世界中に程度の差はあれ存在するのであって、むしろ、潜在化している一見リベラルな社会の方がタチが悪いかも知れないわけで。
ただ、アッバシ監督が言うとおり、「社会」が「連続殺人犯も同然」というのは、本作でよく描かれており、その辺は受け止め方で賛否も分かれるところだろう。先のイスラーム映画祭のTwitterも「露悪的」と書いていたけれど、、、。
サイードが犯人であることを突き止める女性ジャーナリスト・ラヒミを演じたザーラ・アミール・エブラヒミが素晴らしかった。現実にはあんなことは難しいと思うが、イランでも多くの女性たちが闘っているのも事実。日本で声を上げるのだって、とんでもない風当たりなのに、ラヒミはその象徴として描かれてもいたのだと思う。
イラン、一度は行ってみたい国。
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