映画 ご(誤)鑑賞日記

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ドヴラートフ レニングラードの作家たち(2018年)

2021-05-23 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv70644/

 

以下、上記サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1971年レニングラード。ソビエトで活動する作家セルゲイ・ドヴラートフ(ミラン・マリッチ)は、友人で詩人のヨシフ・ブロツキー(アルトゥール・ベスチャスヌイ)と共に、世間に発表する機会を得ようと模索していた。

 そんな闘いのなか、彼らは政府からの抑圧によって出版を封じられ、その存在を消されていく。

 すべてをかなぐり捨て、移民としてニューヨークへ亡命する決意を固めるドヴラートフ。それは、厳しい環境下で喘ぎつつも、精彩を放ち続けたドヴラートフの人生における郷愁と希望の狭間で格闘した究極の6日間であった……。

=====ここまで。


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 昨年夏に公開され、劇場に見に行ったのだけど、正直なところ??な部分もあり、上映後に、ドヴラートフの小説の翻訳を手がけた沼野充義氏と島田雅彦の対談があって、それを聞いたら、もう一度見直してみたくなったのでした。

 ……が、もう一度劇場まで行く気力もなく、とりあえずはドヴラートフの書いた小説を読んでみようと思い、劇場でも対談後に販売されていたんだが、人が滞留していてめんどくさかったので、ネットで買えばいいや、と思ったら、amazonでは法外な値段がついているではないの!! ガーン、、、と思ったら、版元の成文社さんに直接メールで注文できるみたい……ということで、メールしたら、即返信があり、おまけに送料サービスで直送、しかも注文した翌日届いた!! 感動

 注文したのは、「わが家の人びと」「かばん」の2冊。で、これが読んでみたら、めっちゃ面白いんですよ、マジで。書かれた順に「わが家の人びと」から読んだのですが、最初こそ、その簡潔過ぎて飄々とした文体に、むむ……?って感じだけど、すぐに慣れて、慣れたらもうハマってしまった。

 この2冊を読んだら、ますます本作をもう一度見たいと思いまして、2月にソフト化されたのでDVDを購入し、先日ようやく再見できました。


◆著作を読んでから見た方が、、、

 本作を見るまで、ドヴラートフという名も知らなかった。ロシアに行く前に、ロシアのことを泥縄で調べたけれど、そこでもこの名前には出くわさなかった。ネット通販でロシアの食材を購入したら、本作のチラシが入っていたので興味を持って劇場まで行った次第。

 序盤から終わりまで、基本的にはほとんど山ナシで展開していく。ドヴラートフが書く小説が、出版社に受け入れられない、小説家協会に入れない、、、悶々、、、である。協会に入れないと、どれだけ良いものを書いても掲載されない、本にもされないらしいのだ。

 ドヴラートフと同じ物書きたちが集っては、夜通し飲んだり、歌ったり、語ったりするシーンもあるが、トーンとしては全般に暗くて抑揚がほとんどない。

 けれども、なぜかあまり退屈しないのだよね。面白い、、、というのとも違うのだが、ドヴラートフがとにかく鬱憤を溜め込んでおり、自分のやり場のない思いに自分が振り回されている描写に、共感とは違うが、人生って嗚呼、、、と、スクリーンの中の彼と一緒に鬱々としてしまうというか。

 彼はある業界新聞みたいなところで記事を書いて糊口をしのいでいるのだが、思わず笑っちゃったのが、例えば「電気の詩を書け」って言われるんだよね。電気の詩??と思って見ていると、今度は「工場の詩を書け」と言われたり、地下鉄工事をに従事している詩人のクズネツォフに取材に行かされたりもする。その取材中に、幼児の人骨が何体も出てくる事態に出くわすというシーンもある(戦時中に防空壕だった所で、幼稚園児たちが避難していたらしい)。

 彼は、別に反共の物書きなどではなく、自分の書きたいものを書きたいだけ。体制に都合の良いことをちょっと書けば協会に入れるかもしれないけど、そういうことは出来ない。書くもので妥協はできない。まあ、それはそうでしょう。だから、見ていて胸が痛くなるというか、、、。

 ドヴラートフと親しく、後にノーベル文学賞を受賞した詩人ブロツキーも出てきて、自作の詩を朗読しているシーンが何度かあった。その姿を見ていると、吟遊詩人という言葉が浮かぶ。本作の中では描かれないが、ブロツキーは、ちゃんとした職に就かない「徒食の罪」で逮捕されているらしい。徒食の罪って、、、びっくり。私も当時のソ連にいたら監獄行きだったかも、、、、。ブロツキーも反体制の詩を書いていたわけではないのに、結局そういう人を市中に放置しておくと、都合の悪い思想が蔓延って、支配者たちが気づいたときには手遅れになるから……でしょうな。

 終盤は、ドヴラートフのやりきれなさが全開で、見ていてかなりツラいものがある。パンフの沼野氏の解説には、「主人公がどうしても妥協できない潔癖さによって自分を追い詰めていく姿を見て、涙が抑えられなくなった」とある。私は涙は出なかったけど、嗚呼、体制が違っていたらなぁ、、、と、自分の近しい人のことのようにじれったい気持ちになった。

 最初に劇場で見たときはよく分からない部分も結構あったが、ドヴラートフの著作を読んで、そこに書かれていた内容がいくつか本作でも描かれているので、これは本を読んでから見た方が良いと思った次第。……と言っても、ドヴラートフの著作を事前に読むなんて、ロシアやロシア文学によほど興味のある人ではないかと思うけど。


◆沼野・島田対談
 
 冒頭書いたように、本作の上映後にあった沼野充義氏と島田雅彦の対談が割と面白かった。20分くらいだったけど、中身はまあまあ濃かった。

 本作の舞台となった70年代は「ブレジネフ時代」で、「雪解けの時代」の反動で締め付けが厳しくなっていたそうだが、沼野氏が言うには、本作はその当時の「色」がよく出ているとのこと。「発色が良くない、もやっている画面が、社会主義の色に乏しいところと通じていて、ドヴラートフの(自分の小説が出版されない)憂鬱との戯れの描かれ方が特徴的だ」と言っていた。

 また、沼野氏は、この「憂鬱との戯れ方」が上手いとも言っていた。嘆き方にウィットが効いていると。確かに、クスッと笑えるやりとりもあるのだが、あまりにもサラ~ッと描かれているので、それが面白いんだが気のせいなんだか、受け留めに戸惑うところも多々あったなぁ、、、と、この話を聞いて思った。

 意外だったのは、当時のレニングラードは、フィンランドとの物資のやりとりが盛んで、モスクワとはむしろ少なかったということ。理由も語っていたと思うが、メモをとるのが追い付かなかったのだけど、要は西側の通貨は貴重で、フィンランドからの方が豊富に物が入りやすかったということだろう。本作内でも描かれているが、ジーンズや腕時計が闇で高値で取引されていたとか。

 「わが家の人びと」にもパンスト(ストッキングね)の闇取引のエピソードが出てきて、それがかなり笑える。結局、それで大損するんだが、パンストの他にも、鏡付きのコンパクトや、リップなどはわいろとしても有効だったと沼野氏は言っていた。

 本作ではレニングラードの街並みも少し出てきて、凍ったネヴァ河も映っているシーンがある。11月が舞台なのに、もう凍っているのか、、、と、私が昨年2月に行ったときは記録的な暖冬でまったく凍っていなかったのが思い出される。凍った大河を見たかったので、ちょっと恨めしい。……それはともかく、その街並みの景色というか、雰囲気は、いかにも50年前という感じではなかったのだが、島田雅彦が言うには、この街はロシア革命時代から戦後、共産時代も含めて現在まで、ほとんど街並みは変わっていないらしい。

 沼野氏も島田雅彦も話が面白くて、もっと長い時間イロイロ聞きたかったわ。


◆ドブラートフの小説について。

 劇場で本作を見た後に、ドヴラートフの著作を読んだので、何となくギャップを感じた。著作は飄々としていて実に面白い。確かに、自分の書いたものが出版されないことへのモヤモヤもしょっちゅう書かれているんだが、本作での鬱々としたものは、著作からは感じられない。

 おおむね私小説といってよいと思われるが、読んでいるうちに、虚実が混沌として、これはもしや100%創作なのでは?とも思えてくる不思議な小説でもある。その文体は、悪く言えばぶっきらぼう、良く言えば簡潔。でも、実に生き生きとその光景が脳裏に浮かんでくるからますます不思議だ。こんな小説、いままでお目にかかったことがない。

 書籍のカバー見返しの部分にドヴラートフの写真が載っているんだけど、ロシア人というより、南米系の人に見える。沼野氏が言うには、すごい「大男」だったらしい。沼野氏は生前のドヴラートフに会っていて、話もしているという。彼の写真と、小説から受けるイメージは、本作のミラン・マリッチという俳優が演じるドヴラートフとはちょっと雰囲気が違う気がするが、沼野氏は見た目は良く似ていると言っていた。

 ドヴラートフの魅力が伝わる、ドヴラートフの言葉を、「かばん」の沼野氏の解説文から少しだけ引用して感想文おわりにします。小説、オススメです。

 「ぼくの文学的名声はこんなものだ。つまり、ぼくのことを知っている人がいると、ぼくは驚く。ぼくのことを人が知らなくても、ぼくはやはり驚く。そんなわけで、驚きがぼくの顔から消えることは決してない。」
 「何かをぼんやりと感じているときは、まだ書き始めるにはちょっと早いだろう。でも、すべてがはっきりしてしまったら、後は沈黙あるのみ。つまり文学にとって、ちょうどいい瞬間というものはない。文学はいつでも間の悪いものなのだ。」

 

 

 

 

 

 


ドヴラートフは79年にアメリカへ亡命、90年(48歳)NYで死去。

 

 

 


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