映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

負け犬の美学(2017年)

2018-11-14 | 【ま】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 40代半ばを迎え、盛りを過ぎた中年ボクサーのスティーブ(マチュー・カソヴィッツ)は、たまに声のかかる試合とバイトで家族をなんとか養っていた。

 しかし、ピアノを習ってパリの学校に行きたいという娘の夢を叶えるため、誰もが敬遠する欧州チャンピオン、タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)のスパーリングパートナーになることを決意する。
スティーブはボロボロになりながらも何度も立ち上がり、スパーリングパートナーをやり遂げる。

 すると、チャンピオンからある提案が舞い込んでくる。家族のため、そして自身の引き際のために最後の大勝負に出たスティーブが、引退試合のリングで娘に伝えたかった思いとは……。

=====ここまで。

 汗と涙のコッテリ系ではなく、サッパリながらも味わい深いお茶漬けみたいな映画。

 
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 新聞の映画評を見て“面白そうかも”と思い、昼過ぎカミュの舞台『誤解』と、午後7時からのポリーニの演奏会までの間に空いた時間で見に行って参りました。まぁ、ポリーニはともかく、『誤解』は、あまりにも悲惨な話の内容に、見終わった後、気分も頭の中も真っ暗に。原田美枝子が割と好きなので見に行ったのだけど、彼女の声質は意外に通らないのだなぁ、、、と初めて知る。小島聖はパワフルだった、、、。何より美術が布1枚で情景を想像させるという素晴らしさ。この舞台で一番感動したのは、この美術だったかも。

 ……と、いうわけで、カミュで真っ暗になった気持ちを建て直してくれたのが本作でありました。


◆承認欲求なんかクソ喰らえ!!

 ボクシングって、若い頃は、正直あんまし好きじゃなかったんだけど、歳をとるごとにそういう拒絶感は薄れ、今も好きとまでは言えないけれども、嫌いではなくなった。ボクシングにはなぜか他のスポーツよりも“悲哀”みたいなものを感じてしまう。これは、勝手な私のイメージのせいだろうけど、例えば、ゴルフとかテニスとかの持つ“金持ちのスポーツ”イメージとは明らかに違う、“ハングリーなスポーツ”であるからだと思われる。おまけに見ていて痛い。実際殴り合っているのだから、痛いに違いない。

 ボクシング映画といって真っ先に思い浮かぶのは、そらなんつったってDDLの『ボクサー』。本作とはテーマも趣旨も違うので比べようがないけど、主人公のボクサーが人生の岐路に立たされているのは同じ。あの映画で、DDLの美しい顔の鼻が曲がってしまったのだよ、、、トホホ。

 それはともかく、本作の主人公スティーブは、何十敗もしていて、パンチドランカーみたいな症状も出ており、誰が見ても、もう辞めた方が身のためという感じの黄昏ボクサー。でも、彼は本当にボクシングが好きなのが、見ていてよく伝わってくる。もちろん、勝ち負けに拘らないわけはないのだけれど、負け続けても、とにかく「リングに立ちたい」という気持ちが萎えないという、ちょっと不思議なボクサーだ。

 そんなスティーブがさらにボクシングで稼がなきゃならない理由が出来る。可愛い娘の夢を叶えるためだ。……と書いちゃうと、ものすごいベタなんだけど、見ているとそんなベタさは感じない。なにより、娘のオロールが弾くピアノは、決して上手いとは言えない。訥々と一生懸命に、でも楽しそうに弾いているオロールの姿に、彼女が「パリでピアノを習いたい」という夢を持つことを単純に応援したくなる。観客がそう思うのだから、父親が思わないはずはない。

 ……で、スティーブは無謀とも言える、世界チャンピオンの練習相手を務めることになり、、、あとはラストの試合までは、ボコボコにされたり、その姿を娘が見て逃げ出してしまったり、、、という描写が続く。でも、スティーブに悲壮感は全くない。

 そう、この映画がサッパリなのに味わい深いのは、スティーブに悲壮感が全く感じられないからだと思う。ボコボコにされても、娘の前で屈辱的な体を晒しても、彼にとってそれは屈辱でもなければ、みっともないことでもない。一生懸命ボクシングをやっている、、、それだけだ。

 あまりにも吹っ切れている姿に、娘オロールの気持ちを考えると、そんなスティーブはちょっと自己満足なだけの父親じゃない? というイヤミの一つも言ってやりたくなる。大好きなお父さんが、観客に囃し立てられ、貶められ、リングで倒れる姿は、見るに堪えないのは当然だ。

 ……とはいえ、彼は、それまで決して娘に自分の試合を見せてこなかったんだけれどね。オロールがどれだけ「見たい、見に行ってもいい?」とせがんでも、普段は激甘パパなのに、厳しい顔で「ノン!!」ととりつく島もない。それは自分がボコボコにされる姿を見て娘にショックを受けさせたくないという思いもあっただろうけど、そんな痛々しい姿が、家族のために犠牲になっているとか娘に誤解される方が遙かにイヤだったからに違いない。

 それにしても、ここまで突き抜けた姿を見せられると“そういう生き方もあるんだな……”などと、哲学的な思想にまで至ってしまうのだから、天晴れでもある。

 何事も腹を括って臨み、どんな結果も受け容れる潔さがあれば、昨今何かとネタにされる「承認欲求」なんてものは屁みたいなものなのかも知れない。

 だから、終盤、彼が引退試合で闘うシーンは、彼が初めて、自分以外の人のために勝ちに拘った試合だったのかも。妻にも「私のために勝って」と言われるし、娘にも勝利を期待されているのだから。有終の美で終わらせたい、とスティーブが思ったかどうかは分からなかったけど、多分、そういう自分のリング人生よりも、家族のことを考えた試合だったに違いない。


◆その他もろもろ

 スティーブを演じたのは、あのマチュー・カソヴィッツ。『ハッピーエンド』では変態不倫に耽っていたインテリを演じていたけど、ゼンゼン雰囲気も顔も異なる人物造形で、さすがの一言。負けてばかりで顔もアザだらけになったりするのに、悲壮感を醸し出さずに、むしろ時にはカッコ良くさえ見えるという演技は、素晴らしいとしか言い様がない。

 娘オロールを演じたのはビリー・ブレインちゃん。パッと見、男の子かと思ったら、キュートなお嬢ちゃんでした。まあ、とにかく可愛い。美形ではないけど、とにかく愛らしい。これまで愛されて育ってきたのだろうなぁ、と思わせる。ショパンのノクターンをポツンポツンと弾く姿が可愛すぎる。ラストの発表会のシーンでは、大分上達しており、スティーブにピアノを買ってもらった成果なのだろう。その姿を、客席からではなく、ステージ袖からそっと見ているスティーブがイイ。何かジンときた。

 あと、スティーブの妻がとても魅力的な女性だった。夫の身体を心配しつつも、力尽くでボクシングを辞めさせようとはしないで見守る妻。最後の試合ではなりふり構わず絶叫しながら応援している姿が、なんか微笑ましい。イイ夫婦だなぁ、、、と思う。

 若い頃は、結果――つまり、誰もが良しとする勝利や成功――があってこそ生きる意味がある、と思いがちで、自分もそう思っていた時期もあったけれども、歳を重ねると、それがいかに浅薄な価値観だったか身に沁みてくる。そんなこと言っていたら、世の中の99%の人は生きる意味がないことになりかねない。本作は、まさにそういうアタリマエのことを、ベタになることなくサラリと描いている逸品でありました。

 






たくさん負けることが勲章にもなるのだ!




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