映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

回転(1961年)

2017-01-30 | 【か】



 ギデンス(デボラ・カー)は、とある田舎にある屋敷ブライ邸に暮らすマイルズとフローラという幼い兄妹の家庭教師になって欲しいと、ある紳士に依頼される。その紳士は、マイルズとフローラの伯父に当たる男で、2人の両親は亡くなったのだという。紳士は「自分は彼らの後見人ではあるが、私には一切面倒を掛けないでほしい、全て君に任せる」とギデンスに言い渡し、ギデンスも不安を覚えながらもこれを受けることにする。

 しかし、いざ、ブライ邸に着いてみれば、素晴らしい屋敷と可愛らしい子どもたちに、不安は吹き飛んだ。子どもたちはあっという間にギデンスに懐くのだが、ほどなく、ギデンスは屋敷にいるはずのない男と女の姿を見るようになり、、、。

 原作はヘンリー・ジェイムスの名作『ねじの回転』。
 
 
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 『ねじの回転』は、確か高校生の時に読んでいるのだけれど、ほとんど記憶になく、このほど、再読してみた次第。読んでみて思い出したのは、高校生の私は、読了後、「……で?」と思ったことだった。それくらい謎めいた話という印象だったのだと思われるが、今回読んでみて、謎めいていることは確かだけれども、私なりに結構理解できた気がしたのでした。でもって、こんなに印象的なオハナシを、なんでこう、キレイさっぱり忘れてしまったのか、私の脳みそを改めて疑ってしまった。

 、、、読み終わったら、映画も見てみたくなり、本作と、その前日譚である『妖精たちの森』を同時に借りた次第です。まずは、本作の感想から。


◆本当の幽霊説 VS ギデンスの妄想説

 第一印象は、割と原作に忠実だなぁ、でした。ギデンスさんは、原作では、アラサーという感じですので、年齢がやや高い気がしますけれども、、、。デボラ・カーは当時40歳くらいでしょうか。美しいですが、さすがに若い女性家庭教師、というには無理があるかも、、、。

 本作は、ギデンスの見る幽霊が、本当の幽霊なのか、それとも彼女の妄想なのか、という部分で見解が分かれるそうですが、私は、“本当の幽霊”派です。というより、本当の幽霊の方が面白いなぁ、という感じ。そうあって欲しいというか。まあ、理屈で考えると妄想説が有力だとは思うんですけれど。それについては後述するとして、、、。

 なぜ、本当の幽霊の方が面白いと思うか、、、。まあ、真っ当な理由じゃないんですけど、そういう“屋敷ホラー”が、私自身好きだからなんです。

 ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』以外にも、家にまつわる怪奇譚を書いていて、これも結構面白いんです。日本のホラー小説や映画にも、家そのものに原因があるオハナシって結構ありますよね。映画にもなった小野不由美さんの「残穢」は、家ではなく土地でしたけど、まあ、そういう不動産にまつわるコワいオハナシが結構好きなんです。

 だから、本作も、その方が個人的に楽しめるというわけです。実際、本作でもフローラが終盤、おぞましい言葉を狂ったように連発する(具体的描写はありません)シーンがあって、あれなんかは、幽霊が彼女にとり憑いた、という解釈もアリだと思いますし。

 あと、本当の幽霊説の無理矢理な根拠としては、マイルズとフローラの兄妹が、可愛くなくはないけど、ちょっとコワいところですねぇ。無邪気っぽくない感じ。これは多分、演出のなせる業なんでしょうけど、可愛さと怖さが共存している不気味さが実によく出ています。もし、ギデンスの妄想だったら、2人の兄妹をこんなふうに描く必要なはいんじゃないかなぁ、とか。

 、、、で、ここから先はネタバレです。

 本当の幽霊説の、極めつけの根拠は、やっぱしラストです。原作同様、映画も、ものすごい呆気ない幕切れです。マイルズにとり憑いていた幽霊を退治したと思ったら、ギデンスの腕の中でマイルズは死んでいた、、、というもの。これが妄想だったら、一体、どうしてマイルズは突然死したのか、、、。理由がつきません、、、と思うんですけれど、いかがでしょう、、、?


◆ガヴァネスゆえの妄想説

 ギデンスは、家庭教師=ガヴァネスですが、このガヴァネスという彼女の身分が、妄想説の有力な根拠になるんでしょうねぇ。

 家庭教師と言えば、知的な女性の職業のように聴こえますが、ガヴァネス(本作のセリフ中でも何度も出てきます)というと、どちらかというと憐れまれる対象というか、むしろ蔑みの目で見られることさえあったかも、という非常に微妙な立場なわけです。

 ガヴァネスとは、大抵の場合、学はあるけど金のない家の年頃(あるいは年増)の独身女性と相場は決まっており、彼女たちの未来は非常に暗いもの。厳然たる階級社会のイギリスにあって、身分のない学ばかりのある女は、上流階級の妻としても下層階級の妻としても役立たず、でしょう?

 で、妄想の最大の理由と思われるのは、このガヴァネスたちは、ほぼ100%の確率でバージンだということです。時代が時代ですから、結婚前の女性が男と肉体関係を持つなどはしたないこと極まりないわけで、プライドの高い彼女たちはそんな行為には、まあ及ばないでしょう。

 アラサーでバージンの何が悪い! という気もしますが、世間とは下世話なもので、そういう女たちってのは潔癖な反面、欲求不満の塊だ、みたいなイメージを抱くものなのです。ハッキリ言って、アラサーバージンの女性は、特別潔癖でも欲求不満の塊でもないと思います。ただ、ただですね、、、まあ、“男(とは限らないけど)と寝る”という経験は、ある意味、異次元の世界が広がるという部分もあるわけで(……え、ない? そんなの私だけ?)、その異世界を垣間見ていない女性に対して、どうもなぁ、、、という感じを抱いてしまうことは、確かにあります(スミマセン)。偏見でしかないのは重々承知ですが、でもやっぱし、「この人バージンだろうな」と思ってしまう妙齢の女性には、正直、時々でくわします。

 しかも、幽霊の正体であるブライ邸の元従者のクイントと、前任の家庭教師ジェスル先生ってのが、実は、亡くなる前に男女の関係にあって、それがいわゆるアブノーマルなものだったらしい、、、ということが匂わされます。これが、ますますアラサーバージンのギデンスを激しく刺激することになるというのも、説得力あるんですよねぇ。

 ……なものですから、妄想説に一理ある、というのも分かる気がするのです。

 ギデンスが見る幽霊は、他の誰も見ていないのですよね、、、。長年、ブライ邸にいるメイドのグロースさんにも見えていない。フローラがおぞましい言葉を口にするのだって、クイントとジェスル先生は、愛欲にまみれた関係を子どもたちが見ている前で晒していたのだから、意味が分からなくても言葉を知っている理由はちゃんとあるわけです。

 と、書けば書くほど、妄想説が有力だよなぁ、、、。今回、原作を読んでみても、やはり妄想説に軍配な気がしましたし。


◆その他モロモロ

 でもでも! 冒頭にも書いた、本作の前日譚に当たる『妖精たちの森』を見るに至り、やっぱり本当の幽霊説もアリなんじゃないかと思えてきました。なるほど、『妖精たちの森』のような出来事があれば、本当の幽霊説はかなり有力かも!

 ……というわけで、次回は、『妖精たちの森』の感想文を書く予定です。

 本作の原題は“The Innocents”ですが、邦題は、原作からとったんでしょうね。ちなみに、なぜ、ヘンリー・ジェイムズが『ねじの回転』などという原題をつけたかということについて、訳者(南條竹則・坂本あおい)によれば、ねじった話という意味合いだそうで、まあ、捻りの利いたオハナシ、ってことなのではないかと思われます。

 映画の本作と回転という言葉は、正直しっくりこないので、原作にとらわれ過ぎずに邦題をつけた方が良かったんじゃないか、という気もします。

 デボラ・カーは、本当の幽霊説も妄想説も、どちらにも説得力のある演技で圧巻です。特に、燭台をかかげて暗闇の中を歩くシーンは、『クリムゾン・ピーク』によく似たシーンがあり、本作へのオマージュだったのかも? などと思っちゃいました。

 クイントの顔が夜の窓に映るシーンとか、遠目にしか見えないジェスル先生の幽霊とか、見せ方が工夫されていて、この辺りも楽しめます。

 あと、屋敷に人間の石像がいっぱいあるんだけど、あれが結構コワい。あんなの、夜、庭を歩いていたらかなり恐ろしいと思います。代々続く古い屋敷ってのも、何ともいえない不気味さがあります。

 まあ、ホラー映画というにはそれほど怖くはないですが、デボラ・カーのおかげで、品のある恐怖感がところどこでじんわり来ます。

 





じんわりゾクッときます。




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