平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「徳川記 巻四」の解読 6
田植えが済み、育ち始めた早苗の中に、カルガモが一羽いた。合鴨農法のアイガモは雑草を駆除し、ジャンボタニシも食べてくれるようだが、果たしてカルガモはどうだろう。
夜半からまた雨脚が強くなった。明日のお昼ごろまで続くらしい。
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「徳川記 巻四」の解読を続ける。
元康公、岡崎に皈陣(きじん)す。駿州へこれを告ぐ。義元これを感じ、西三河の内、信長抱えの城々、攻め取らるべきの由、下知なされ、これにより、寺部(城)、梅坪(城)を攻伐(こうばつ)、また広瀬衣笠城を打ち破り、岡崎に皈(かえ)る。以って、家人に割り与え、清康卿に劣らざる武将と、各(おのおの)これを悦ぶ。この後、駿府へ往かしめ、義元これを賞す、云々。
※ 攻伐(こうばつ)➜ てがらを立てること。いさお。功績。
桶迫(おけはざま)合戦、付り、義元討ち死同年五月上旬、義元、四万余騎の軍勢を卒(そつ)して、駿州より尾州に発す。十七日、池鯉鮒(ちりゅう)に着陣す。先陣は沓掛に到る。鳴海には岡部五郎兵衛。大高の城には鵜殿長門守。これを、信長、大高を攻め取るべしと、丸根城を構え、佐久間大学を入れ置き、十五日、義元、池鯉鮒より丸根を攻め捕るべしと評義(ひょうぎ)す。大学これを聞いて信長に告ぐ。これにより、信長朝臣、則時に発馬(はつば)されるといえども、その内、元康卿一分の勢(ぜい)を以って、丸根に攻め入り、大学、粉骨防戦を謁(まみ)え、討ち死にす。ここにおいて、松平善四郎、高力新九郎、筧又蔵以下、岡崎随一の勇士戦死。信長公これを聞きて、我れ片時(かたとき)、遅参に倚(よ)り、大学討死に及ぶ。甚だこれを嘆惜(たんせき)せらる。
※ 評義(ひょうぎ)➜ 評議。意見を出し合って相談すること。 協議。
※ 謁える(まみえる)➜ 対面する。お目にかける。
※ 片時(かたとき)➜ ほんのしばらくの間。
※ 嘆惜(たんせき)➜ 嘆き惜しむ。
義元、元康公を以って、大高に入らせ、軍を山際に引き取り、何れの城より攻め取るべきかと、勝ちに乗じ、その気、怠慢(たいまん)す。然る処に、信長卿、魁兵(かいへい)、佐々隼人、千秋四郎、岩室長門守など駆け付け、義元の陣に切り入るといえども、駿兵尽(ことごと)く戦いて、即時にこれを討ち取る。義元威(い)を振(ふる)い、信長卿、兼ねて今日十死一生(じっしいっしょう)と閑道(かんどう)を経(へ)、義元の本陣に駈け下らんと欲す。
※ 怠慢(たいまん)➜ 当然しなければならないことをしないこと。なまけて、おろそかにすること。
※ 魁兵(かいへい)➜ 他に先んじる兵。
※ 威を振う(いをふるう)➜ 勢威を示す。
※ 十死一生(じっしいっしょう)➜ 十死一生の日。ほとんど生きのびる見込みのない日。
※ 閑道(かんどう)➜ 交通の中心となるような主要な道からはずれた、脇の道。抜け道。
(「徳川記 巻四」の解読つづく)
読書:「剣客船頭」 稲葉稔 著
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