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地蔵峠の弁財天と神尾山のシュンラン

(山道で咲くシュンラン)

この木曜日から日曜日までの4日のうち、3日間、運動不足の解消とお遍路の足慣らしで、午後それぞれ4時間ほど歩いた。木曜日は自宅から島田駅、電車でつないで金谷駅から自宅まで歩いた。その話は二日にわたって書きこんだ。金曜日は自宅から金谷駅、石畳を越えて菊川の里に下り、一級河川、菊川に付かず離れずしながら、菊川駅まで歩いた。そして日曜日の今日は大井川鉄道に五和駅から神尾駅まで乗り、地蔵峠から神尾山に登って、南の長者ヶ原を越えて大代に降りてきた。

今日の歩きは小登山である。神尾山の標高は551メートル、大井川鉄道神尾駅の標高がどのくらいかわからないが、おおよそ標高差500メートル、標準時間で2時間弱の登りである。


(地蔵峠の弁財天の祠)

地蔵峠には新しく弁財天の祠が出来ていた。

   舟山弁財天の由来
神尾を流れる大井川の真ん中に舟山という島がある。この島は水流を切って川上の方に進む舟の形をしている。この舟山には昔から神尾の住民、対岸の川口の住民らが祀る社がある。本尊弁財天の由来は孝謙天皇(奈良時代)の御世遠州小夜の中山で蛇身鳥を退治することになり、勅使から矢竹の御用を命ぜられ当舟山の矢立二本を献上した。その結果勅命によって舟山に堂宇を建て弁財天の像を賜り安置したことに始まる。
それから歳月は流れ腐損或いは風震により破損し再建すること数度に及ぶ。文政(江戸時代)十一年(1821)に大井川大洪水があり御堂は勿論尊像棟札まで全て流失した。その後天保元年(1830)弘化、文久年間にも新堂を建築また明治三二(1899)神尾、川口の両村で相談し合同の開扉供養を行った記録もある。大井川の水流が豊富な頃は大井川を仕事場とした船頭、筏乗り川狩の人足衆は上流から命掛けで川を下りやっとここまで辿り着いて安堵し仕事の無事を弁天さんに感謝し祈を捧げたと言う。(中略)
弁天の祀は地元神尾の篤い信仰する人々に依り毎年八月十六日に供養を続け平成六年には石造弁天像を安置した。夏は大井川の水量も多く舟山までの参拝は仲々困難なこともありここ峠の地蔵堂で供養をした。
このたび平成二十年八月十六日住民の願い叶い茲地蔵峠に新たに弁天堂を築し本尊を安置祀るに至った。
(資料明治十二年古文書光明院資料より)

登山道は落葉樹の落ち葉に覆われているから、注意していないと道を間違えそうである。落葉樹の林は冬場は明るくてよい。落ち葉の中から顔をもたげたシュンランの花を一輪見つけた。一部伐採されているところがあった。雑木林を何のための伐採であろうか。太い針葉樹も切られてしまい無残なことである。年輪を数えてみたら樹齢は65年ほどあった。外側の10年ほどが年輪の幅が広いように思った。これも温暖化の影響だろうか。樹木は太くなるのが早いかもしれない。

登山道は山頂を経て送電線の鉄塔を巡視のための道をたどって下った、鉄塔2つに立ち寄って林道に下りた。林道を辿ると五叉路に出た。右から2番目の緩やかに下る道を勘で選んだ。おそらく童子沢に下って行くのだろうと覚悟して進むと再度分岐があり、今度は左の道を選んだ。それが正解で、長者ヶ原の茶畑の中を進み、自宅に向かってまっすぐの下り道を進んだ。

今日の一山をこなした4時間は自信になった。本日の歩数、20,184歩。
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