平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「徳川記 巻四」の解読 4
昨夜来、時々激しい風雨が襲う、悪天候が続いていた。雨の止み間に庭へ出てみると、樹下に羽根を隠し、風雨を避けるクロアゲハがいた。なるほど、雨風はこんな風に避けるのかと納得した。デジカメを向けても、観念したように、飛び立つそぶりは見せなかった。
久し振りに、無店舗古書店のT君に電話をした。掛塚の旧廻船業の主人の日記が収まるべき所へ収まってよかったと話す。最近は古書店業界内の市も、コロナ禍で開かれず、毎日倉庫の整理や、古文書の点検などで過ごしていると聞いた。近いうちに、一度訪問させてもらうと話してスマホを切った。
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「徳川記 巻四」の解読を続ける。
九月十三日の朝、城兵を打ち払い、藤浪畷(ふじなみなわて)を出で、本多豊後が陣に突き懸かる。寄せ手惣軍、轡(くつわ)を並べ駈け合い、互いに励(はげ)み勇み、数剋(すうこく)挑戦す。死者員(かず)を知らず。ここに富永半五郎(義照(昭)股肱(ここう)の臣、廿五歳)、日来(にちらい)、猛勇、今日の軍将として、先登(せんとう)を進むが、戦(いくさ)して鳥井半六を討つ。大久保大八郎、透(とお)さず、富永を斬る。富永駆け抜け、また大八を斬る。大八、刀を捨て組み伏せ、富永が首を取る。然るを、敵大勢下り合い、大八を討つ。味方、咄(とつ)と突き懸かる。その敵を篭め置き、科野城には松平勘四郎一信を居らしめ、笠寺に葛山備中守、三浦左馬助、飯尾豊前守、浅井小十郎など四百余輩を入れ置く。然る所に、尾州より科野向い城を構え、日夜これを攻める。
※ 藤浪畷(ふじなみなわて)➜ 「畷(なわて)」は、まっすぐな長い道のこと。「藤浪畷」は、東条吉良氏の居城、東条城をめぐる吉良氏と松平元康(家康)の一連の攻防戦の一つ、「藤浪畷の戦い」のあった古戦場。
※ 轡を並べる(くつわならべる)➜ 馬が首をそろえて並ぶ。また、そろって同じことをする。
※ 数剋(すうこく)➜ 数刻。
※ 股肱(ここう)➜ 主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下。腹心。
※ 日来(にちらい)➜ ふだん。ひごろ。
※ 先登(せんとう)➜ まっさきに敵の城に攻め入ること。一番乗り。さきがけ。
※ 下り合う(おりあう)➜(合戦の場などに)寄り集まる。
※ 咄(とつ)➜ 激しくしかるときに発する語。ちょっ。
※ 向い城(むかいじろ)➜ 敵の城を攻めるため、それに対して構える城のこと。
勘四郎、諸卒に謂(い)いて曰く、今夜甚雨(じんう)の最中を以って、敵陣を夜討(やうち)すべく、各(おのおの)その意を得べく云々。皆なこれに同(どう)じ、子丑の半ば、付け城に到り、城戸(きど)を破り乱入す。敵兵周章(あわ)て、打ち明け、柵を越えて逃げ去る。此(ここ)に於いて、大将竹村孫七郎、磯田金平、戸崎平九郎、瀧山伝八郎、惣じて五百余輩を討ち捕り、残党城を棄て逃げ去る。義元父子、勘四郎に感状(かんじょう)を賜わる、と云々。
※ 甚雨(じんう)➜ ひどく降る雨。大雨。豪雨。
※ 子丑の半ば(ねうしのなかば)➜ 夜中の一時頃。
※ 城戸(きど)➜ 中世では、柵や城郭の出入口を意味した。
※ 感状(かんじょう)➜ 主君などが部下の戦功を賞して出した文書。のちに恩賞の証拠となった。
(「徳川記 巻四」の解読つづく)
読書:「不精者 剣客春秋親子草 4」 鳥羽亮 著
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