goo

遠州高天神記 巻の壱 12 高天神籠城の事(後)

(高天神城馬場平からの眺望、御前崎方面)

「遠州高天神記」の解読を続ける。今日で、巻の壱を読み終える。明日からは巻の弐に入る。

今日も人名の羅列が続く。軍記には不必要に人名の羅列が多いように思う。我々からみると、代表的な人、活躍した人を挙げて、その他は「都合弐百騎なり」で良いと思うのだが、軍記の読者には、その子孫や関係者の子孫などが多かったのだろうから、その読者にとっては、人名が欠かせない要素だったのだろう。いわば作者の読者サービスといったところか。


(高天神城御前曲輪跡)

(高天神籠城の事 後)
御前曲輪大将、斎藤宗林入道(これは中村を知行す)、小笠原河内守。組合、村松左近、長男六郎右衛門、馬渕半七、杉浦能登郎、武藤源右衛門、匂坂牛之助、安田越前、池田奴津平(これは毛森を知行す)、伏木久内、梶川魚兵衛、浅羽治郎左衛門、漢人十右衛門、伊達藤十郎、朝比奈佐太夫、倉地嘉兵衛、福島十郎右衛門、戸塚九兵衛、小嶋与五右衛門、同武左衛門、海福久右衛門、黒田九郎太夫義則、同玄忠入道義得(この黒田は、足利下野守義次、越前国黒田に有りて、黒田と名乗り、その子日向守は紀州に住す。三男式部少輔義理は遠州城飼郡を前代に領す。義理が四男黒田監物義重、同郡平川村を領す。その子今の九郎太夫義則まで八代なり)、永田太郎左衛門清佐(同郡丹野村に住す)、糟谷善左衛門則高(掛川の西郷村を知行す)、斎藤権兵衛、同五郎七、池田左内、同十内、村井太左衛門、荒瀬弥五左衛門、伊藤入道、松下平八、犬塚市平、同五右衛門、田中平助、赤尾孫助、客和平助、石野藤助(この両人は掛川客和が一類、与八郎を頼み来るなり)安方伝内、桜井九郎左衛門、同源吉、小川久助、浅田伊助、都合弐百騎なり。

高天神口裏門搦め手の大将、渡辺金太夫(当所土方村を知行す。武功の者なり)、小笠原長左衛門、林平六、三人なり。土方村の郷の入口まで城を取り惣門有り。この口より城中へ水木の用事、自由に調え出入の方、組合、松浦佐太夫、長坂新五郎、佐々安右衛門、上田新左衛門、久野平太夫、同兵三郎、同三郎五郎、戸塚五左衛門、同半弥、河上平太夫、松原権左衛門、村松佐太夫、宮地三郎太夫、森善右衛門、奥垣八内、都合弐百五拾騎なり。
※ 水木(すいぼく)-水と薪。

大手池の段の大将、小笠原右京氏義、赤堀大学正信なり。組合、小笠原久衛、小池左近、大石外記氏久、其子新次郎久末、山下七郎右衛門、村田弥惣、野間弥五左衛門、小島次郎右衛門、金沢弥右衛門、波切金右衛門、同金十郎、村越半右衛門、川田平兵衛、同平太郎、鈴木左内、同九郎左衛門、古川清右衛門、神野八郎兵衛、村井久右衛門、丹羽弥惣、牧野勘兵衛、八木勘右衛門、前嶋金太夫、加藤伝治、市川伝兵衛、戸田介左衛門、今村新之丞、久世三四郎、坂部三十郎、奥野仁左衛門、長坂門三郎、浅羽角平、佐津川伝右衛門、海福武兵衛、星野新太郎、堀田九郎右衛門、同九八郎、松嶋五兵衛、山中与五右衛門、広田五左衛門、寺田市左衛門、松浦佐太夫、門奈七郎右衛門、小柳津喜太夫、村松佐内、松山八右衛門、小笠原与治郎、柴田作左衛門、竹田右衛門、都合三百騎なり。

帯曲輪は、吉原又兵衛、組付弐拾五騎、弓鉄砲の者三拾人なり。遊軍には、伊達与兵衛、中山是非之助、組付侍、同弓鉄砲の者ともに百七拾人なり。惣勢都合弐千余騎なり。

皆これ今川家の小身の士、近辺を知行せし者なり。或いは駿州より落ち来たる者も有り。上様御入国の時より御味方に参る者どもを、掛川天王山取り合い時より、与八郎と組合仰せ付けられ、今またかくの如く当城に篭城仕るべしと上意に依って、かくの如しなり。

ある時、小笠原与左衛門云いけるは、甲州より当城へ寄せ、惣攻めの時は、敵近々と取り巻くべし。然れどもかようの堅固の籠城を、一旦日に攻め破る事は成るまじく、日数を送る内に城中よりも出て戦う事も成るまじく、只つまり/\の山崎より遠矢に射取るべし。然らば我々が弓勢の程をためし見んとて、元亀二年未正月初旬、高天神の城より十町ばかり東、毛森村と云う所の奥山より、南の野を見下し繰り矢に射る。その矢五町余りを飛んで、田の中に立つ。この所に小塚を築きて矢塚と云う。印置き、これを見て与左衛門、弓勢の程、皆人舌をまきにけり。城中の諸士、我も/\とこの所に出て、遠矢を射、或いは、鉄砲の術を尽し、寄手遅しと勇気をはげまし待居たり。
※ 一旦(いったん)- 短い時間。
※ 繰り矢(くりや)- 近世の競技用の矢。遠矢に用いる。


遠州高天神記 巻之壹 終
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
« 遠州高天神記 ... 遠州高天神記 ... »
 
コメント
 
 
 
高天神 御前曲輪 (河東村出身者)
2016-09-29 08:30:17
いつも拝見させて頂き、大変参考にしております。ありがとうございます。

とくに、この御前曲輪のところは、漢人・黒田・浅羽氏をはじめ地元の郷士の集合で人名が非常に多いものと推察します。ー方この記述があるお陰で他の資料と付き合わせることが可能であり、素人歴史マニアとしてはわくわくしております。

恐縮ですが、解読いただいた内容につき一部小生のblogにて引用させて頂きたいのですがよろしいでしょうか?
 
 
 
了解しました (きのさん)
2016-09-29 23:40:19
了解しました。

よろしければ、貴兄のブログ名を教えて頂ければと思います。自分も読んでみたいと思います。
 
 
 
re:高天神 御前曲輪 (河東村出身者)
2016-09-30 00:04:15
ありがとうございます。
小生のblogは下記の通りです。


遠州 河東村出身者のblog
http://ameblo.jp/captain-kato
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。