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”駿河町中を加宿に”、伝馬町の企み - 駿河古文書会

(庭のクリスマスローズ)

先週金曜日の駿河古文書会、扶食米依頼の一連の文書の中に、突然のように次の文書が紛れ込んできた。以下読み下し文で示す。

一 同九日に風聞に承り候は、伝馬町問屋年寄、江戸において、当町を加宿と成らんに願い候由、風聞に付、その段、御月番様まで申し上げ、十日に町中寄合い致し、口上書、御月番様まで差し上げ申し候

その口上書は以下の通りである。

   恐れながら口上にて申し上げ候覚え
伝馬町問屋、年寄何やら御願いの義にて、さる頃、江戸へ罷り越し候、それについて昨夕風聞に承り候は、町中を加宿に御願い申し上げ候由、定めて虚説にて有るべく御座候えども、万々一、実説にて御座候えば、町中相立ち申さず候、当町段々困窮に付、先年仰せ付けられ候、三千百四拾弐人ずつ、年々伝馬町へ差し出し候人足さえ、御訴訟申し上げたく、より/\相談仕り罷り在り候ところ、右風聞承り驚き奉り候、幸い伝馬町の者は在江戸仕り候えば、何とぞ江戸御屋敷へ召し寄せられ、御尋ね遊され下さり候様に、願い奉り候、風聞
の儀申し上げ候段、はばかり多く存じ奉り候えども、万々一の儀も御座候えば、町中ひしと相立ち申さず候に付、恐れながら申し上げ候、以上
     未三月十日             年行持 印
       御月番様
右書付類、御番所御月番、市左衛門様、治部右衛門様まで差し上げ申し候、江戸へ仰せ上げられ下すべく候由、仰せ渡され候事


実は、扶食米依頼の最初の文書を御番所へ提出するときに、こういう文があった。

一 正月廿五日、会所において、町中人別書付、請け取り候節、伝馬町問屋より、役人庄兵衛を以って、断り申し越され候は、伝馬町の儀、外に御願いこれ有るに付き、今度扶食米御願いの儀は御除き下さるべく候、かくの如く申し来り候ゆえ、惣人数に除き申し候事


ここでいう、「外に御願いこれ有るに付き」というのが、つまり、「町中を加宿にして欲しいという御願いであった」という風聞である。風聞だから事実かどうかわからないのであるが、駿府の町々は真剣であった。

駿府は九十六町からなるといわれるが、扶食米の願いを出したのは、その内八十八宿であった。東海道の宿場は駿府宿ではなくて「府中宿」と呼ばれていた。府中宿として宿場町の役割を果たしてきたのは、上下伝馬町を中心に、新谷町、花陽院門前町、鋳物師町、上横田町、下横田町、院内町、猿屋町の八ヶ町であった。つまり(96-88=8)の八町が、この府中宿を構成して、扶食米願いから外れているのである。

府中宿側が、残りの八十八町も加宿にして欲しいと、どうして願うのか。「加宿」とは、江戸時代、人家が少なくて人馬を出しにくい宿駅で、地続きの一、二の隣村をこれに加えて一か宿の用を勤めさせたことである。人馬の供出については、助郷の制度もあって、近郷の村々から人馬が集められそうに思う。また、当時すでに、駿府の町々はたくさんの人足を府中宿に出している。

宿場は一般の旅人からは宿泊や食事などで金が稼げるけれども、幕府の役人や参勤交代などでは、多くの人馬を宿側に負担で出さねばならず、重荷になっていた。加宿にすれば、その費用が分担できるメリットがあるけれども、旅人の宿泊客も取られることになりはしないのだろうか。ともあれ、ここでは府中宿側では負担の軽減になり、加宿にされる側では負担がさらに増加すると考えられていた。

歴史的には加宿になった事実はない。風聞がガセだったのか、伝馬町など府中宿側の願いが通らなかったのか、あるいは、駿河町中の反論が効を奏したのか、ここでは不明である。
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