今日は午後からさくら教室。それまではサーカス団の下絵だったのね・・・例えばピエロってお題で依頼された話を膨らませて、家族をサーカス団に見立てて作るって構想を立てた。
当然ピエロはメインキャラとなり、そこはまずまずの絵が描けたのね。その時に例えば、トトロが描けたって感じになり、ネコバスやまっくろくろすけって具合に描けたとする。
こうしてそれぞれのキャラが一同並んでポスターにした時、何か見劣りするキャラがあると、納得行かないでしょ?そして更に、メイやさつきと言った人間のキャラって言う普通の絵を加えた時、
トトロの横に立たせても馴染むのと、キャラに負けてしまう人間キャラって、普通に考えて見劣りするのね。その時に、ゾウだのシロクマって言う動物キャラは、デフォルメしやすいのね。
でも人間ってどうキャラを立てるか?・・・しかも情報を聞いたけれど、ハゲていて、太っているって情報では、どんなキャラにする?って考えた時に、サーカス団の調教師ってどうだろうか?
って所までは良かったが、ごく普通の太った人って感じになり、いかにそれをピエロに馴染ませ、キャラとしても魅力を感じるか?・・・さていかに。って所でさくら教室。
そんな中、パーツを切ってて・・・これって下絵通りに切っても何か変?って思ったらしいのね。それを感じた事は良いのね。でもその前に、もっと根本的な事が違うのね。そもそもこうした、
幾何学模様みたいな場合、左右対称みたいな絵だから、形や大きさを一定にして同じ大きさで揃える。それによって、安定感に繋がり、何処を取っても同じ様になるのね。
これが塗り絵のラインのように、上手い人が描いたラインの通りって言うのを切るのなら、何も考えずにキチンとその通りに切れば良いだけだから、切る練習を繰り返せばそこそこになる。
そして更に意識を向上させて、ラインの内側に揃えて、その線が見えるように・・・って言うのか?それともラインをスレスレにするのか?って言う意識だけで、痩せるのも太るのも変えられる。
それはそのラインがしっかりアテになるからであって、そもそも写した線自体が曖昧な場合、ズレていたりするものなのね。つまりあくまで目安と考えて、そのラインを一定に保つ為に、パーツで
直しつつ合わせて行くって感じにするのね。そう思って意識して進めるのと、切ってて余程違って見えた・・・だから何か変だな・・・って気付いた。でも大きく違っていなかったら、判らずに
進んでいたとしたら?そのままで終われるのならラッキーだろうが、もしそれが後半に気が付いたとしたら?ダメージは大きいと思うのね。ある意味早くて傷は浅かったと考えるべきなのね。
常に何の何処が・・・どうしてとか、疑問が無いと、変化や進化が無いのね。常に上手くなったら、そのまま進まずに、それが出来たらその上を求めるようにならないと、上手くはならないのね。
それと、むやみやたらの意識の低い、頑張ります・・・って言葉は全く意味が無いのね。必ず何かをした時に、何処の何がと振り返ると、是正が出来るのね。でも上手く行ったらラッキーで、
何も無かったように進め、つまづいた時だけ、何でこうなったんだろうか?って振り返っても、そこで初めて振り返って考える事になるのね。そもそもラッキーだと思った時に、本当にそうだったか?
って言うと、そこから疑問が湧くのね。そもそも本当はラッキーもアンラッキーも無いのね。俺ならラッキーって思っている自分の目が甘かった。そこでやり過ごした事を何度も繰り返した結果、
アンラッキーが生まれたと考える事が自然で、こんな時は大袈裟な例えの方が身に染みるのね。例えば、アスリートに火事場の馬鹿力があるか?となると、普段から鍛えていて、常にしのぎを削る。
そんな人を追い込んだとしても、大幅な差は無いと思うのね。でも日頃から普通に生きていたとしたら?そこに命掛けのシーンに追い詰められたら、そりゃ日頃の何倍もの力を出せるのは当然。
つまり気を張るって自ら意識を持つ事で、その意識が洞察力に繋がり、何が何処がって見る目になる。つまりただ切るから、どう切る?何が違う?って観察力にも繋がるのね。
そして気が付けば是正が出来るが、はぁ?何が?って人は、全く是正をする気は無いんで、そこの領域以上にはならないのね。しかもそこが安定すると、簡単に言えば二軍の4番バッターみたいな、
感覚になる。格下にはめっぽう強く、相手を威嚇して棒球を投げさせる事が出来たりする。しかし、ひとたび一軍に上がると、そこの居場所は緊張感から萎縮し、威嚇どころか威嚇を受ける。
常に自分がやって来た事をされる・・・ただ本人にその自覚が無いと、どうして結果に繋がらないか?って悩み、その繰り返しをして行くだけなのね。その仕組みを知り意識を変えて取り組まないと。
何も変わらずに終わるだろうね。その意識って話も、過剰過ぎれば悩み過ぎになり、迷って進めなくなるし、体調の悪い時、休んでいるような時間に振り返りなどすれば、悪い状況の振り返りは、
気って部分が病んでいるから、病気なのに、ますます悪化するのね。しかも日頃の振り返りもしないで、そんな時にする・・・日々の練習無しのいきなり甲子園・・・まっ結果は出なくて当然。
調子が良いから悩まない、調子が悪いから悩む・・・文字にすればするほど、こりゃ結果は出ないなって思うでしょ?これがラッキーとアンラッキーの仕組み。別に不思議な事は一切無いのね。
ただ常に良い事と悪い事は背中合わせで、この考え方の欠点は全てに置いて安定感な話であり、落差を少なく済ませられるって話なのね。つまり100楽しいってラッキーって時に、何も考えずに
済むけれど、悪くなったら100楽しめないから、もはやそれは0・・・何しろ極端な人への是正の例えであって、フォアードチックな生き方なのだから、無かった事にして次に挑む的発想なのね。
これをディフェンダー的発想なら、逆に一度の失敗も許されない・・・みたいになるから、常に最悪を防ぐ・・・って感じになる。最高を求めるのでは無く、最悪を防ぐ・・・正反対な感じね。
そう考えると、どちらか一方の考え方しか持ち合わせの無い人に、こんな考え方もあるって言う事を受け入れられると、触らぬ神に祟りなしなのか?信じる者は救われるのか?みたいな極論や、
二兎追う者は一兎も得ずなのか?一石二鳥なのか?みたいな話で、それとて例外はあって、大谷さんってな話ね。まぁ大抵こんな話をした時に、こうした例外で逃げ切ろうって人は最初から是正を
する気は無いんで、何を言っても無駄なのね。是正ってのは受け入れないと無理なのね。しかも俺を受け入れるんじゃ無くて、この話でそう考えている自分と向き合う事であって、俺の意見なんて
何も意味は無いのね。そもそもそう言う事もある・・・って選択肢を1つ増やしただけの話で、そうとは限らない・・・って否定をし続ける時点で、何も変えないんだなぁって思うだけなのね。
常に是正とは気付きなのだから。ってこうした長々な時、当然さくらに言いつつ、独りになって自分自身も振り返る事になるのね。さて今の俺はどうかな?と。その時にさくらがサーカス団の団長
ってワードを言ったのね。そっか、俺はサーカス団の調教師だと思っていた人は、団長だったのかぁ・・・って気付くと、団長は偉いんだから、一家の大黒柱の旦那さんって言うのに当てはまる。
なるほどね・・・団長ね。ただフォワードって支え方もあるし、ディフェンダーって支え方もある。しかもピエロの奥さんが主役なのだから・・・となると・・・
それでこうなったのね。いくらか是正した感じが出て来たのね。
当然ピエロはメインキャラとなり、そこはまずまずの絵が描けたのね。その時に例えば、トトロが描けたって感じになり、ネコバスやまっくろくろすけって具合に描けたとする。
こうしてそれぞれのキャラが一同並んでポスターにした時、何か見劣りするキャラがあると、納得行かないでしょ?そして更に、メイやさつきと言った人間のキャラって言う普通の絵を加えた時、
トトロの横に立たせても馴染むのと、キャラに負けてしまう人間キャラって、普通に考えて見劣りするのね。その時に、ゾウだのシロクマって言う動物キャラは、デフォルメしやすいのね。
でも人間ってどうキャラを立てるか?・・・しかも情報を聞いたけれど、ハゲていて、太っているって情報では、どんなキャラにする?って考えた時に、サーカス団の調教師ってどうだろうか?
って所までは良かったが、ごく普通の太った人って感じになり、いかにそれをピエロに馴染ませ、キャラとしても魅力を感じるか?・・・さていかに。って所でさくら教室。
そんな中、パーツを切ってて・・・これって下絵通りに切っても何か変?って思ったらしいのね。それを感じた事は良いのね。でもその前に、もっと根本的な事が違うのね。そもそもこうした、
幾何学模様みたいな場合、左右対称みたいな絵だから、形や大きさを一定にして同じ大きさで揃える。それによって、安定感に繋がり、何処を取っても同じ様になるのね。
これが塗り絵のラインのように、上手い人が描いたラインの通りって言うのを切るのなら、何も考えずにキチンとその通りに切れば良いだけだから、切る練習を繰り返せばそこそこになる。
そして更に意識を向上させて、ラインの内側に揃えて、その線が見えるように・・・って言うのか?それともラインをスレスレにするのか?って言う意識だけで、痩せるのも太るのも変えられる。
それはそのラインがしっかりアテになるからであって、そもそも写した線自体が曖昧な場合、ズレていたりするものなのね。つまりあくまで目安と考えて、そのラインを一定に保つ為に、パーツで
直しつつ合わせて行くって感じにするのね。そう思って意識して進めるのと、切ってて余程違って見えた・・・だから何か変だな・・・って気付いた。でも大きく違っていなかったら、判らずに
進んでいたとしたら?そのままで終われるのならラッキーだろうが、もしそれが後半に気が付いたとしたら?ダメージは大きいと思うのね。ある意味早くて傷は浅かったと考えるべきなのね。
常に何の何処が・・・どうしてとか、疑問が無いと、変化や進化が無いのね。常に上手くなったら、そのまま進まずに、それが出来たらその上を求めるようにならないと、上手くはならないのね。
それと、むやみやたらの意識の低い、頑張ります・・・って言葉は全く意味が無いのね。必ず何かをした時に、何処の何がと振り返ると、是正が出来るのね。でも上手く行ったらラッキーで、
何も無かったように進め、つまづいた時だけ、何でこうなったんだろうか?って振り返っても、そこで初めて振り返って考える事になるのね。そもそもラッキーだと思った時に、本当にそうだったか?
って言うと、そこから疑問が湧くのね。そもそも本当はラッキーもアンラッキーも無いのね。俺ならラッキーって思っている自分の目が甘かった。そこでやり過ごした事を何度も繰り返した結果、
アンラッキーが生まれたと考える事が自然で、こんな時は大袈裟な例えの方が身に染みるのね。例えば、アスリートに火事場の馬鹿力があるか?となると、普段から鍛えていて、常にしのぎを削る。
そんな人を追い込んだとしても、大幅な差は無いと思うのね。でも日頃から普通に生きていたとしたら?そこに命掛けのシーンに追い詰められたら、そりゃ日頃の何倍もの力を出せるのは当然。
つまり気を張るって自ら意識を持つ事で、その意識が洞察力に繋がり、何が何処がって見る目になる。つまりただ切るから、どう切る?何が違う?って観察力にも繋がるのね。
そして気が付けば是正が出来るが、はぁ?何が?って人は、全く是正をする気は無いんで、そこの領域以上にはならないのね。しかもそこが安定すると、簡単に言えば二軍の4番バッターみたいな、
感覚になる。格下にはめっぽう強く、相手を威嚇して棒球を投げさせる事が出来たりする。しかし、ひとたび一軍に上がると、そこの居場所は緊張感から萎縮し、威嚇どころか威嚇を受ける。
常に自分がやって来た事をされる・・・ただ本人にその自覚が無いと、どうして結果に繋がらないか?って悩み、その繰り返しをして行くだけなのね。その仕組みを知り意識を変えて取り組まないと。
何も変わらずに終わるだろうね。その意識って話も、過剰過ぎれば悩み過ぎになり、迷って進めなくなるし、体調の悪い時、休んでいるような時間に振り返りなどすれば、悪い状況の振り返りは、
気って部分が病んでいるから、病気なのに、ますます悪化するのね。しかも日頃の振り返りもしないで、そんな時にする・・・日々の練習無しのいきなり甲子園・・・まっ結果は出なくて当然。
調子が良いから悩まない、調子が悪いから悩む・・・文字にすればするほど、こりゃ結果は出ないなって思うでしょ?これがラッキーとアンラッキーの仕組み。別に不思議な事は一切無いのね。
ただ常に良い事と悪い事は背中合わせで、この考え方の欠点は全てに置いて安定感な話であり、落差を少なく済ませられるって話なのね。つまり100楽しいってラッキーって時に、何も考えずに
済むけれど、悪くなったら100楽しめないから、もはやそれは0・・・何しろ極端な人への是正の例えであって、フォアードチックな生き方なのだから、無かった事にして次に挑む的発想なのね。
これをディフェンダー的発想なら、逆に一度の失敗も許されない・・・みたいになるから、常に最悪を防ぐ・・・って感じになる。最高を求めるのでは無く、最悪を防ぐ・・・正反対な感じね。
そう考えると、どちらか一方の考え方しか持ち合わせの無い人に、こんな考え方もあるって言う事を受け入れられると、触らぬ神に祟りなしなのか?信じる者は救われるのか?みたいな極論や、
二兎追う者は一兎も得ずなのか?一石二鳥なのか?みたいな話で、それとて例外はあって、大谷さんってな話ね。まぁ大抵こんな話をした時に、こうした例外で逃げ切ろうって人は最初から是正を
する気は無いんで、何を言っても無駄なのね。是正ってのは受け入れないと無理なのね。しかも俺を受け入れるんじゃ無くて、この話でそう考えている自分と向き合う事であって、俺の意見なんて
何も意味は無いのね。そもそもそう言う事もある・・・って選択肢を1つ増やしただけの話で、そうとは限らない・・・って否定をし続ける時点で、何も変えないんだなぁって思うだけなのね。
常に是正とは気付きなのだから。ってこうした長々な時、当然さくらに言いつつ、独りになって自分自身も振り返る事になるのね。さて今の俺はどうかな?と。その時にさくらがサーカス団の団長
ってワードを言ったのね。そっか、俺はサーカス団の調教師だと思っていた人は、団長だったのかぁ・・・って気付くと、団長は偉いんだから、一家の大黒柱の旦那さんって言うのに当てはまる。
なるほどね・・・団長ね。ただフォワードって支え方もあるし、ディフェンダーって支え方もある。しかもピエロの奥さんが主役なのだから・・・となると・・・
それでこうなったのね。いくらか是正した感じが出て来たのね。