katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

みどり教室

2014-07-03 06:09:11 | モザイク教室

今日はみどり教室。作品から見て取れるように、ガラスタイルが入って、かなり作品に迫力も出て、更にクラッシュに慣れた事もあり、安定感があり、進行速度としても悪くない。

これでほとんど片羽が終了するのだから、ほぼ繰り返しをやる事になる。ただここにも良い事と悪い事は背中合わせで、何も考えずに一生懸命だった時とは経験値が違うのね。

まず良い事には経験値として、仕上がった自分の羽が良くも悪くも参考となる。当然ながらデザインは繰り返されるのだろうから、そこを考える必要は無い。

つまり考える事よりも、どちらかと言うとそこに費やした時間や、悩んだ場所や是正に関してとか、知ってしまった事による、またあれを繰り返すのかぁ・・・・と言った気持ちになったりする心の問題。

ただそれが逆に、あっあれを繰り返すだけね・・・って言う気持ちでも、軽く見過ぎで、そんな感じだと、今度は軽く見過ぎた分、さっきとは違う悩み事が起こる可能性がある。

そうね、ああすれば、こうすればが判った分、能率効率でやれば、綺麗かどうか?では無く、早くやるには・・・と、時間調整をしたりしてね・・・・。

そう言う点では、今の所は特にどちらにも当てはまらず、ひとまず何も無く片羽の終わりを迎えている。  そんな事の理由の1つとして、ここの所、オルタやテレビと続け様に色々とあって、

例えばオルタの場合だと、やる気はあったし、行って見たいと思っても、その場所の大きさなど、色んな問題の中、現地には行けない事を経験し、けれど、仕込みをアトリエでやった。

ここには、華やかな現地とは違い、どちらかと言うと裏方のような地味なものがあり、そんな経験もやって見たい気持ちになった事や、それとは違いテレビの件では、ほとんどの撮影の現場を見た。

逆に生で見たものは、テレビの放映とは違って、あれだけの事をやっても、これだけ・・・と思ったらしい。つまり現地と言うのも、そう言うもので、ほんの束の間・・・の出来事だったりもする。

中々こんな経験って言うのは、今まで少なかったが、急に色んな事を間近で見た事が、単なる弟子になりたい・・・ってものよりも、あんな事やこんな事が、具体的にこれなのね・・・と、

漠然としていたものから、これなのかぁ・・・って、少ないながらも経験した事で、今の作品を作る事の果てしなさよりも、これが認められての権利・・・って言う創作意欲を掻き立てる刺激に

なった・・・そんな気分にさせたらしいのね。当然、目的や目標がはっきりしていた方が、人は進みやすい。そうね、例えば受験。何処でも良いから・・・よりも、何処って学校名を上げると、

そこの過去の問題の傾向と対策なんて事があったりする。勉強以外に面接だったりもね。しかも、目安として何がどう足りないか?何て事すら判った上での勉強を出来たりもする。

ただ、そこには生活感は無く、身の回りの世話をして貰った上で勝ち取るもので、しかもたった3年の繰り返し・・・・けれど、その年齢の経験値では、それすらも理解が出来なかったりする。

では大人になった今、そんな気分になれる?となると、働いていたり、お母さんとして時間が無かったり、お金に限界があったり・・・・そんな中、何かを目指すってねぇ・・・。

中々無いでしょ?大抵は趣味って余暇の時間だからね。 それを出来れば仕事にならないかな・・・って思いながら続けるのだから、それは大変な事である。

何しろ俺が成功をしていて、具体的に支払い金額でも提示しているようであれば、単なる職業選びなのだから、簡単な話だけれど、その日が来る前に腕の向上って言うようなもので、

権利の取得みたいなもの。その近道みたいなものが大作だったりする。何しろ自分の作品の果てしなさに耐えられないようでは、仕事となればそう甘く無いし、しかもグレ-ドも問われる。

ただ作品が大きい事が大作って意味では無く、作品の大きいって事は、それ相応の覚悟や、上手く行かない事にぶつかる事になる。何しろ自分の持ち時間との兼ね合いにもなるのだから。

背伸びをすれば無理をしないと進まない。無理って言うのは、今までの生活の中で、何らかの時間を辞めて、その時間に費やさないとならない事であり、それがプレゼントだったり、

季節モノのように、終わりが決まっていたり、短時間ならそんな事もやりやすいが、いつか・・・なんて果てしない時間は、ほぼやった事が無い人が多いし、ある意味修行のようなもの。

それは知らなくて当然。ただそんな事を目指した人の作品は、こうして途中経過であっても、凄い・・・と思わせる作品となる。何しろそんな葛藤を続けながら作っているのだから、その作品は

趣味とは違って当然なんだけれど、逆に趣味なのにキウイのようにあの上手さ。どんな形であっても、いずれにせよ、出来ない事では無いって例でもある。

そんなこんな話は、今まで見ていてくれた人なら、当たり前の話なんだけれど、実は今回の一連の話は、そんな当たり前の事の上乗せになる話だったはずなのね・・・。

要するにオルタは仕事だったのだから、権利は弟子からなのだから、かぐやは文句無く参加は誰にでも判る。ただ弟子の2名が来られない・・・そうなるとキウイは生徒のエ-スだから、

無条件に順番として誰にでも判る。こうやって決まって行ったのだけれど、もしあの玄関の大きさが倍だったら?当然、みどりの参加もあっただろうが、現地での居場所は無かった・・・。

行きたかったのに行けなかった・・・。そう、けれど裏方の仕込みは出来たはず。その参加の仕方も勉強だったのね・・・出来れば弟子になる前に、そう言う事を経験して貰いたい・・・。

そうすれば、かぐやが何をしているか?さくらはどんな気持ちなのか?そう言った意味がすぐ判るはずだから。それが判らないようでは、単なる腕が上がっただけ。

かぐやの営業で仕事が出来て、かぐやは常に来られる訳では無いのに、いつかその仕事をやる事になる・・・そう言う人の気持ちを判らないようでは、人の上に立つものとは思えないし、

逆にさくらのように、何も出来ない・・・と悩んでいる人の気持ちは?となった時、弟子になるとは?
・・・・と考えた時、そうした中、今、何が出来るか?となる。出来ないながらも・・・と。

それが準備となる。話はそれるが、俺は完全にいっちょかみで、ワ-ルドカップを見た。 ファンでも無いのにね。そこで見たのは勝敗だけでなく、人の気持ちだったりした・・・何しろ先生なんで。

あそこに選ばれた人なのに出られなかった人がいた。そこに土壇場で落とされた人がいた。中心人物と思われた人が控えにいた・・・そんな人はどう過ごしていたのだろうか?

そしてそれを決めた監督の気持ちは?・・・・そこには描かれない事があったはず。単なる勝敗だけなら、ニュ-スを見れば一目瞭然だが、交代の選手が映された時のベンチは見応えがあった

そこには準備をしている人、結果が出ず落胆し、疲れ果てている人・・・しかも結果に一喜一憂。それは4年に1度の事だったからであり、単なる国内の試合とは重みが違ったのであろう・・・。

見ている人達も泣いていた・・・・。つまり同じサッカ-であっても、何かが違う扱いだったって事。要するに日々のモザイクと今回の一連の珍しい事は、みどりに取ってそんな感じに思えたかな

・・・・。モザイクと言うのであれば、自分の作品であろうと、無かろうと、お教室の助手だろうが、作品作りだろうが、モザイクが上手くなる・・・って事であれば、すべては一緒であるが、

華やかな出来事だったのかも知れない。いずれにせよ、刺激くらいになったとしたなら、それはそれで今何をすべきで、何故権利の取得なのか?の意味が少し判ったと思う。

良い勉強をしただろう・・・・ね。いくらか進歩が伺える。


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