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『万国公法』の自然法への傾斜は、法が何に由来するのかといった法源についての説明箇所で著しい。国際法の用語には、「性」・「義」といった儒教的なことばが法と接続して使用され、中国人が国際法をより自然法に近づけて理解しやすい構造となっている。たとえば“Natural law”とは現代語では「自然法」と訳すが、マーティンは「性法」という訳語を与えた。この「性」とは、儒教の根本原理「理」のことであって、万物の根元であり法則とされる「理」が、個々の事物に宿るものが「性」であり、人の場合、それは「五常」(仁・義・礼・智・信)という徳目を意味する〔略〕。したがって、当時の人々が「性法」ということばを眼にした時、近代国際法とは(儒教的)道徳と法とが渾然一体ものとして理解され受容されていくことになった。すなわち本来、『万国公法』をはじめとする近代国際法は、国家間の権利や義務を規定するものであるのに、まるで全世界の国々が遵守すべき普遍的・形而上的な規範として理解されるようになったのである。 (「4.3.2 翻訳について」)
『万国公法』の自然法への傾斜は、法が何に由来するのかといった法源についての説明箇所で著しい。国際法の用語には、「性」・「義」といった儒教的なことばが法と接続して使用され、中国人が国際法をより自然法に近づけて理解しやすい構造となっている。たとえば“Natural law”とは現代語では「自然法」と訳すが、マーティンは「性法」という訳語を与えた。この「性」とは、儒教の根本原理「理」のことであって、万物の根元であり法則とされる「理」が、個々の事物に宿るものが「性」であり、人の場合、それは「五常」(仁・義・礼・智・信)という徳目を意味する〔略〕。したがって、当時の人々が「性法」ということばを眼にした時、近代国際法とは(儒教的)道徳と法とが渾然一体ものとして理解され受容されていくことになった。すなわち本来、『万国公法』をはじめとする近代国際法は、国家間の権利や義務を規定するものであるのに、まるで全世界の国々が遵守すべき普遍的・形而上的な規範として理解されるようになったのである。 (「4.3.2 翻訳について」)
「第三篇第二章 心論」、同書388-407頁。同篇の結論として著者は「意は心の発であり、志は心の之く所であるから、友に心の作用であり、従つて亦性の発動を予想するものであるが、果して性中の何の理から発するものと為すのであるか、此の点については朱子は未だ嘗て何も述べて居らぬのである」(407頁、原文旧漢字)とまでしか言っていないが、そこに至るまでの議論において「心は性情を統ぶ」であり(390頁)、「性」が「太極の理」であり(同頁)「情」が「一切の意識現象」であり(同頁)そして「知覚作用は性中の智の理が動いて起るもの」とある(402頁)。そうであるとすれば、朱子学においては人間に理性は存在しない。ただ同時に、「先知先覚」を「真理の認識(理の存在の認識=道徳的認識)」(401頁)としているところ、人間独自の思考、就中推論能力を、その位置付けは不明確・不十分ながら、有るものとして認めていることになる。先があれば後がある。後知後覚は人間のはからいということになる。
(目黒書店 1937年10月)
(目黒書店 1937年10月)
倉本一宏編『日記・古記録の世界』(思文閣出版 2015年3月)所収、同書227-269頁。
いわゆる「記録体」の研究であり、その面からみた宇多天皇の日記の分析である。本書は国文学および日本史の論集であって文献学のそれではないだろう。この論考もあきらかに歴史学の見地もしくは文脈に立って書かれている。
宇多のなかで、『倭』と『漢』はどのように位置づけられていたのか――。〔略〕それは、彼が天皇として再編を推し進め、十世紀に入って定着した新しい国制の性格や意味を考える上でも、あるいは貴重な手がかりを与えるものになるかもしれない。本稿は元はといえば、彼の文体を分析することを通じて、こうした問題をいくぶんなりとも考えてみようとするものであった。だが存外にも、日記からは彼の『漢』への傾倒ぶりだけが際立つ結果が導かれることとなった。これをどう捉え、どう位置づけたらよいのか。引き続き考えていきたい。 (「おわりに」同書260-261頁)
いわゆる「記録体」の研究であり、その面からみた宇多天皇の日記の分析である。本書は国文学および日本史の論集であって文献学のそれではないだろう。この論考もあきらかに歴史学の見地もしくは文脈に立って書かれている。
宇多のなかで、『倭』と『漢』はどのように位置づけられていたのか――。〔略〕それは、彼が天皇として再編を推し進め、十世紀に入って定着した新しい国制の性格や意味を考える上でも、あるいは貴重な手がかりを与えるものになるかもしれない。本稿は元はといえば、彼の文体を分析することを通じて、こうした問題をいくぶんなりとも考えてみようとするものであった。だが存外にも、日記からは彼の『漢』への傾倒ぶりだけが際立つ結果が導かれることとなった。これをどう捉え、どう位置づけたらよいのか。引き続き考えていきたい。 (「おわりに」同書260-261頁)