書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

川原秀城 「宋時烈の朱子学」

2015年04月21日 | 東洋史
 川原秀城編『朝鮮朝後期の社会と思想』(勉誠出版 2015年2月)、同書99-139頁。

 宋時烈の研究レベルが高いのは、帰納と演繹の質と量を確保する――厖大な資料を解析して一般法則を発見し、法則間の論理的整合性を考察し、一般法則から結論を推論し、結論の客観性を獲得するためである。(122頁)

 これだけなら大層驚くべきことだが、同時にこうも書かれているのはどう解釈すべきか。

 宋時烈は二程朱子の学に心酔しそれを絶対化し、孜々として有用な朱子学基本書を編み、程朱書に精密な注釈をくわえる。〔略〕朱子学の厳格かつ排他的なフレームワークからわずかでも飛びだそうとはしない(121頁)

鈴木開 「『満文原檔』にみえる朝鮮国王の呼称」

2015年04月21日 | 東洋史
 川原秀城編『朝鮮朝後期の社会と思想』(勉誠出版 2015年2月)、同書83-98頁。

 出版社による紹介
 太祖ヌルハチの天命年間から太宗ホンタイジの天聡年間の末年まで、後金ハンは、朝鮮国王をみずからと同様にhanハンと呼んでいた由。ところが天聡年間の末年からwangワン(王)と呼ぶ例が増えはじめ、ホンタイジが皇帝に即位し国号を大清国と改めた次の崇徳年間には自らがハンにして寛温仁聖皇帝となる一方で、朝鮮国王にたいする呼称はワンで統一されるという。

仁井田陞 『補訂中国法制史研究 法と慣習 法と道徳』

2015年04月21日 | 東洋史
 著者は言う、あたかも近代個人主義と外形上共通であるかのような意識の持主」ではあるが、それは「多くの場合、エゴイストの範疇」に属する中国人が存在すると(「法と道徳」第二章第四節「血縁的仲間的利己主義」526頁)。
 私はかねてより、中国文化には少なくとも原子論に由来する西洋式の「個人」の概念はなく、代わりに有るのは自他の区別のない気の世界観のなかの「個我」と考えているが、同じ事を考える先学がここにおられたわけである。
 そしてこの仁井田氏の議論は、こう続けられる。

 かくて個人――私――の確立がない場合には、當然、公の確立もない。(第五節「公私の無差別」本書530頁)

 公的なものと私的なものとの領域的分解は前近代的思惟の内には求め難い。(同上)

 中国では古くから「公」と「私」とは対應して使われている〔略〕。しかしその公は私よりもそのおかれた段階が隔絶的に上であった。〔略〕しかも「私」自身の支配領域が確立していないために、家族をこえた一般社会のうちでも自他の支配區分限界が不明瞭であり、自分のものと他人のものとの支配領域は互に侵し侵されがちであった。「私」意識の意識確立のないところではまた「公」の意識の確立もない。
(同上)

「公」と「私」の境界が不明瞭であったというよりは、意識においてはこの世のすべてが「公」であり、そしてそれは支配者(例えば皇帝)の「私」であり、その他に人間の「私」(この場合意識)は存在を許されず、結果、有るのは「公」の意識と「私」の我(我欲)だけになったということではなかろうか。
 こう考えれば、氏の仰る「社会構造的に公私の別があいまいな社会では、私的な経済(個人的な財布)も公的な経済(国家的な財布)と領域を分たずして相流通することは不可能ではない」(531頁・原文旧漢字)という主張も、解りやすくなる。そしてその結果、これに続く議論、もしくは現実・現象の、

 そのような社会では役所の上役が、役所の経費として予定せられたものを、その一割以内ならば天引して自分のふところに入れることは、別段、社会的に非難さるべき行為ではない。(同上)

 との繋がりも、判りやすくなる。

(岩波書店1980年12月、もと1964年3月初版)

'Latin Today: Roman Rebound' ("The Economist", Dec. 20th, 2003, pp. 41-42.)

2015年04月21日 | 人文科学
 10年あまり前の報道だが、この記事によると、毎週木曜日にバチカンで5人の専門担当者による会合があり、そこで国際政治経済から風俗文化に至るまで、世界の最新の事物や現象を表現するための新しい語彙を、伝統的なラテン語で造語する作業が行われるという。

  The results of their labours is the new "Lexicon Recentis latinitatis". (Ibid., p. 42)

 このラテン語とは、Ecclesiastical Latin であろうか。

  Having developed as a style of Late Latin called sermo humilis, used to preach and otherwise communicate to the people in ordinary language, it can be distinguished from Classical Latin by some lexical variations, a simplified syntax in some cases, and, commonly, in modern times, an Italianate pronunciation. ("Ecclesiastical Latin", Wikipedia
 

ウィキペディア 「永久法」項

2015年04月21日 | 社会科学
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E6%B3%95

 アウグスティヌスのような教父の法理論においては神定法と同義に扱われるが、トマス・アキナスにおいては両者は分離され、神定法は特に聖書によって啓示された法を指す。永久法が人間の自然本性である理性によって把握された場合は、自然法と呼ばれる。

 アウグスティヌスの場合はさておき、トマス・アキナスの定義に拠れば、儒教の教えには元来神定法(聖人が定めたのだから聖定法というべきか)のみあって、永久法がない。
 宋学はこの永久法を探究・獲得しようという運動とその結果だったと見ることは可能か。

落合淳思 『甲骨文字の読み方』

2015年04月21日 | 東洋史
 落合氏によれば、甲骨文字には、たとえば「往田(田に往く)」と、他動詞+目的語にするべきところが、「田往」と目的語+他動詞となる、語順の逆転がしばしば見られる由。氏はこれを「倒置」と解釈し、「〔なぜ〕起こるかについての具体的な研究はない」と留保をつけつつも、強調のためではないかとされる。あと、口語の口調をそのまま写したことも語順転倒の原因の一つとして考えられるとしている。本書135-136頁。
 なお、以下の指摘も非常に興味深い。

 甲骨文字では形容詞や副詞の語彙が、漢文〔引用者注・周代以後の漢語〕に比べて極端に少ない。甲骨文字に見える形容詞・副詞の文字数はそれぞれ二十文字程度である。殷代には、様子や状態を詳細に表現する必要がなかったのであろう。助辞についても、後代の漢文と比べて字数ははるかに少ない。(120頁)

 形容詞と副詞の語彙の少なさについては、甲骨文字が記すテーマの性質とその文体からも考えられないだろうか。
 助辞の少なさは、甲骨文字が書き言葉であることの証拠とも見なせないか。

(講談社 2007年8月)