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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

兪碩在 「『北の代弁人』に転落した日本の左派知識人」

2008年06月04日 | 抜き書き
 「朝鮮日報日本語版」記事入力 : 2008/06/01 11:55:02
 〈http://www.chosunonline.com/article/20080601000018〉
 副題:「【新刊】韓相一(ハン・サンイル)著『知識人の傲慢と偏見』(キパラン)」

“日本の代表的出版社である岩波書店が1946年に創刊した月刊誌『世界』は、「日本の進歩的知識人の公論の場」という賛辞を受けてた〔ママ〕。日本の軍国主義的価値を否認し、自由と民主、良心と人権を追求した『世界』は、華麗な執筆陣と極めて強い影響力を誇っていた。”

“『世界』は、1970年代から80年代にかけて持続的に金日成元主席をインタビューし親北朝鮮的な記事を書く反面、韓国に対しては極端に神経症的な態度を見せた。1972年から16年間にわたり連載された「韓国からの通信」は、現在翰林大学の碩座教授を務めている池明観(チ・ミョングァン)が、「TK生」というペンネームで韓国の暴圧的政治状況について暴露した記録だ。韓国において経済的自立と政治的民主化という近代的プロジェクトが進行していたまさにその時期、日本の左派知識人たちは、この企画連載を通じ韓国の近代化の否定的側面ばかりを取り上げ、「内政干渉」レベルの批判を浴びせかけた、と著者は語る。”

“国民大政治外交学科の教授として長年の間『世界』を購読してきた著者は、この雑誌を体系的に分析した末、次のような結論を打ち出した。「韓半島問題に関する限り、『世界』は北朝鮮の代弁誌に他ならなかった。その偏向した論調は、結果的に、韓・日両民族の和解にとって少しも助けにはならなかった」” 

“こうした日本の左派知識人には、最低限の徳目である「事実確認」と「実証的態度」が欠如しており、実体と経験に全く根拠を置かないまま「北朝鮮=善」という単純な論理をそのまま表に出していた、と本書は指摘する。それは、知識人自身の感情を満足させるための虚勢と自己欺瞞の結果だった、というわけだ。”

 彼らがもともと“韓・日両民族の和解”など目指していなかったとしたら?
 韓国・北朝鮮の国や国民のことなど、本当は興味も関心もなかったのだとしたら?

大門正克編著 『昭和史論争を問う 歴史を叙述することの可能性』

2008年06月04日 | 日本史
 ●『昭和史』に対する亀井勝一郎批判をめぐる内容だが、題名が示すように、話題はもっぱら、亀井批判のうち歴史書における人間描写の問題に限られる。
 ●亀井批判の中にある重要な論点の一つ、同書が第二次世界大戦末期のソ連の参戦に関し批判を避けていること、その際のソ連軍による残虐行為について曖昧な言及しか行っていないことについては、まったく話題になっていない。 
  
 以上、遠山茂樹/家永三郎ほか「座談会 歴史と人間――とくに現代史の問題を中心に――」(2008年05月24日欄)のコメントをコピー。
 さすがに遠山茂樹を被害者扱いしていない。もっとも50年もたったのだから当然といえば当然ではあろう。

(日本経済評論社 2006年6月第1刷 9月第2刷)

遠山茂樹/今井清一/藤原彰 『昭和史 〔新版〕』

2008年06月04日 | 日本史
1. 当初の『昭和史』(2008年05月23日欄)と比較。

 ★田中上奏文(田中メモランダム、田中覚書、1927年)の記述が削除された。

 ★関特演(関東軍特別演習または関東軍特殊演習、1941年7月-9月)について、ほぼ事実のみの記述になっている。

 ★日本のポツダム宣言受諾(1945年8月8日深夜)の理由に関して、原子爆弾の投下よりもソ連の参戦を重視する記述はほぼ同じ。 

 ★朝鮮戦争勃発(1950年6月25日)に関して、北朝鮮軍による先制攻撃について、事実か否かの判断を避け、さらに、アメリカ軍による先制攻撃・侵略であるという印象を与える、曖昧な記述がなされている。

2. 亀井勝一郎 「現代歴史家への疑問」(2008年05月24日)の疑問に対する回答度(もう面倒くさいので最重要点だけ)。

 ★「7. 大戦末期のソ連の参戦に関して批判を避けたこと、その際のソ連軍による残虐行為について曖昧な言及しか行っていないこと」に、一切答えていない。

  ・「今度の戦争で、ソ連の参戦といふ重大事実に対してなぜ批判を避けたのか。” に無回答。
  ・“これは親ソとか反ソとは関係なく、国際法の上から是非を明らかにしておかなければならない問題である。” に無回答。
  ・“満洲に進駐してきたソ連軍が略奪暴行したことについて私などしばしば聞くが「ソ連軍の満洲進出にあたつて、その一部に暴行があつたといわれ、それが反ソ宣伝の材料とされた。だがその主な責任は、関東軍が治安を保つ責任を放棄し、軍人、軍属とその家族を後方に輸送することにのみ熱中してゐたことにあつた」といふのはほんたうにそのとほりなのかどうか。” に無回答。
  ・“日本軍の残虐については容赦なくふれてゐるが、ソ連軍の行為を曖昧に葬つたのはどういふわけか。” に無回答。

3. 結論。

 旧版とは、「進め!電波少年」が「進ぬ!電波少年」に変わったほどの差異を認む。

(岩波書店 1959年8月第1刷 1994年12月第55刷)

廣松渉 『生態史観と唯物史観』 

2008年06月03日 | 社会科学
 冒頭「原本はしがき」によれば、もと「現代の眼」1978年4月号から7回に分けて掲載された由。つまりいわゆる「『文明の生態史観序説』論争」がおこなわれてから(実際のところ論争など存在しなかったが。少なくとも梅棹氏と批判者の間では)、20年後に書かれたもの。
 難しくて解らず。

(講談社版 1996年7月第3刷)

梅棹忠夫「文明の生態史観序説」(「中央公論」1957年2月号掲載)に加えられた批判のなかから2例

2008年06月01日 | 抜き書き
いいだもも 「文明の生態史観終説」
 (『大衆文化状況を超えるもの 文化と革命』、晶文社、1965年4月所収)

“敗戦直後の自己否定と物質的無力から日本肯定へ、この新しいナショナリズムの底流を梅棹史観はすくいあげ、分かりやすい図式にして見せたのです。(中略)生態史観が高度近代文明と言い換えているのは、言うまでもなく高度資本主義のことですが(そこでは今日のソ連やチェコでさえも低度前近代国家なのだ!)、日本資本主義の技術革新、高度成長は当時、小状況では「電化バカ」と「テレビ白痴」を生む程度にまではなり、その民衆の生活上昇価値感にピタリとマッチして、「生態史観」が、天皇制一元価値の崩壊、皇国史観の解体以来、歴史像を失っていた日本人の歴史意識をうまく吸いあげたのです。そのナショナリズム・デザインは、戦後状況に反映して、国粋主義的・反共的日本肯定ではなく、西欧主義的・反共的日本肯定というおもしろいオリエンタル・シック調です。” (同書117頁)

 「世界史の基本法則」教徒からの外在的批判。

竹内好 「二つのアジア史観 梅棹説と竹山説」
 (『竹内好評論集』第三巻「日本とアジア」、筑摩書房、1966年所収。もと「東京新聞」夕刊、1958年8月15-17日掲載)

“梅棹説のなかには反共に利用されるものが本来的にふくまれているからだ。” (同書75頁)
 
 敵を利することはたとえ本当のことであっても言ってはならないという、批判になっていない批判。