著者は、通州事件(昭和12・1937年7月29日)発生の一報を受けて、現地の責任者(在北京日本大使館参事官。当時は中華民国日本帝国大使館参事官)として直接その処理に当たった人。当事者の説明を聴く。本書127-131頁。
この出来事について、他書にはどう書かれているのだろうか。
●『ウィキペディア』「通州事件」
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。
事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。
なお、中国側ではむしろ「抗日蜂起」と看做されている。
張慶餘とは何者ぞ。
彼は、冀東保安隊第一総隊長(当時)である。
●『南京事件-日中戦争 小さな資料集』「『通州事件』ー直接の引き金」
〈http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu2.html〉
秦郁彦「盧溝橋事件の研究」より
張慶餘は、回想記のなかで久しく以前から抗日を決意し、冀察幹部と通謀して反乱の機会を狙っていたと主張するが、二十七日早朝の戦闘で傳営(ゆう注 「傳営長」の誤植と思われます。中国側第ニ九軍)と共に戦う機会を見送っている点からみても、説得力は乏しい。むしろ保身に徹するか、勝ち馬に乗ろうとして形勢を観望していたと思われる。(P316~P317)
通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。(P317)
『盧溝橋事件の研究』(東大出版界)は、1996年12月出版。
●本欄2003年8月4日(月)◆秦郁彦 『現代史の争点』 (文藝春秋)
〈http://toueironsetsu.web.fc2.com/booktoday/bt200308/bt0308.htm〉
3.通州事件は、「実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって起こした反乱によるもの」であって、中国側の日本にたいする虐殺とはいえないこと。(「昭和史の『修正主義史観』を排す」 229頁)
『現代史の争点』は1998年5月出版だが、「昭和史の『修正主義史観』を排す」は「諸君!」1989年11月号に掲載されたもの(原題「謙虚な昭和史研究を」)。つまり、『盧溝橋事件の研究』のほうが後になる。要するに、秦氏の見方は、誤爆を主原因とする見方からそれを要因の一つとする見方へと変化したということだが、しかし「陰謀説」にも与していない。
それにしても、思い返してもひどいのは、狭間直樹氏の通州事件と事件に関連する言説である。
●本欄2000年11月28日(水)◆狭間直樹・長崎暢子著 『世界の歴史 27 自立へ向かうアジア』 (中央公論新社)
〈http://toueironsetsu.web.fc2.com/booktoday/bt200111/bt0111.htm〉
狭間氏は、上海事変時の「上海での『海軍陸戦隊の砲撃』」という当時の写真説明について、「隣国人の生活、生命への配慮はまったくない」と批判している(135頁。「南京国民政府の時代」、“上海事変”項)。また氏は、世上伝えられる、日本軍によるこの際の南京での様々な残虐行為に関して、”それらはいずれも、今のわれわれの感性からいえば、あまりにもひどすぎる。犠牲となった人びとの無念は晴らしようがないだろう” (172頁)と書く。
まさにそのとおりであるが、通州事件について、“中国の保安隊が反乱を起こして日本人居留民約150名を虐殺した”と書いて、その非をならすどころか、 “日本の侵略に不満もあろうから反乱を起こしても不思議ではない”(165-166頁、「抗日戦争、そして惨勝」、“七七盧溝橋事件”項)と断じている。氏にとっては、よほど取るに足らぬ問題らしく、通州事件の起こった日付(1937年7月29日)すら書いていない。
「日本が侵略したために中国の民衆が一方的に災難を被った(略)。日本の民衆もたしかに戦争の被害を受けたが、それは自国が起こした侵略戦争において、加害者として振る舞った結果としての被害だった」(201頁)
「物理的な被害としては同じであっても、それが持つ歴史的な意味あいはまるで正反対のものである」(同頁)
氏の批判がもっぱら日本軍、日本人のほうに向けられて、中国人の“隣国人の生活、生命への配慮”については不問に付すのは、氏にとって、日本人は加害者であるから殺されて当然どころか、正反対の意味合いであるから、中国人が日本人(氏も注記されているように、殺された150人の7割は朝鮮人なのだそうだが)殺すのは正義であるという理屈らしい。さらに、非難の反対は賞賛である以上、氏は、その論理に忠実に従えば、中国人が日本人を殺すのは被害者が加害者を殺すのは当然であるだけでなく賞賛されるべき行為だと、主張していることになる。
繰り返すが、気は確かなのだろうか?
(岩波書店 1950年6月第1刷 1998年12月第12刷)
この出来事について、他書にはどう書かれているのだろうか。
●『ウィキペディア』「通州事件」
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。
事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。
なお、中国側ではむしろ「抗日蜂起」と看做されている。
張慶餘とは何者ぞ。
彼は、冀東保安隊第一総隊長(当時)である。
●『南京事件-日中戦争 小さな資料集』「『通州事件』ー直接の引き金」
〈http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu2.html〉
秦郁彦「盧溝橋事件の研究」より
張慶餘は、回想記のなかで久しく以前から抗日を決意し、冀察幹部と通謀して反乱の機会を狙っていたと主張するが、二十七日早朝の戦闘で傳営(ゆう注 「傳営長」の誤植と思われます。中国側第ニ九軍)と共に戦う機会を見送っている点からみても、説得力は乏しい。むしろ保身に徹するか、勝ち馬に乗ろうとして形勢を観望していたと思われる。(P316~P317)
通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。(P317)
『盧溝橋事件の研究』(東大出版界)は、1996年12月出版。
●本欄2003年8月4日(月)◆秦郁彦 『現代史の争点』 (文藝春秋)
〈http://toueironsetsu.web.fc2.com/booktoday/bt200308/bt0308.htm〉
3.通州事件は、「実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって起こした反乱によるもの」であって、中国側の日本にたいする虐殺とはいえないこと。(「昭和史の『修正主義史観』を排す」 229頁)
『現代史の争点』は1998年5月出版だが、「昭和史の『修正主義史観』を排す」は「諸君!」1989年11月号に掲載されたもの(原題「謙虚な昭和史研究を」)。つまり、『盧溝橋事件の研究』のほうが後になる。要するに、秦氏の見方は、誤爆を主原因とする見方からそれを要因の一つとする見方へと変化したということだが、しかし「陰謀説」にも与していない。
それにしても、思い返してもひどいのは、狭間直樹氏の通州事件と事件に関連する言説である。
●本欄2000年11月28日(水)◆狭間直樹・長崎暢子著 『世界の歴史 27 自立へ向かうアジア』 (中央公論新社)
〈http://toueironsetsu.web.fc2.com/booktoday/bt200111/bt0111.htm〉
狭間氏は、上海事変時の「上海での『海軍陸戦隊の砲撃』」という当時の写真説明について、「隣国人の生活、生命への配慮はまったくない」と批判している(135頁。「南京国民政府の時代」、“上海事変”項)。また氏は、世上伝えられる、日本軍によるこの際の南京での様々な残虐行為に関して、”それらはいずれも、今のわれわれの感性からいえば、あまりにもひどすぎる。犠牲となった人びとの無念は晴らしようがないだろう” (172頁)と書く。
まさにそのとおりであるが、通州事件について、“中国の保安隊が反乱を起こして日本人居留民約150名を虐殺した”と書いて、その非をならすどころか、 “日本の侵略に不満もあろうから反乱を起こしても不思議ではない”(165-166頁、「抗日戦争、そして惨勝」、“七七盧溝橋事件”項)と断じている。氏にとっては、よほど取るに足らぬ問題らしく、通州事件の起こった日付(1937年7月29日)すら書いていない。
「日本が侵略したために中国の民衆が一方的に災難を被った(略)。日本の民衆もたしかに戦争の被害を受けたが、それは自国が起こした侵略戦争において、加害者として振る舞った結果としての被害だった」(201頁)
「物理的な被害としては同じであっても、それが持つ歴史的な意味あいはまるで正反対のものである」(同頁)
氏の批判がもっぱら日本軍、日本人のほうに向けられて、中国人の“隣国人の生活、生命への配慮”については不問に付すのは、氏にとって、日本人は加害者であるから殺されて当然どころか、正反対の意味合いであるから、中国人が日本人(氏も注記されているように、殺された150人の7割は朝鮮人なのだそうだが)殺すのは正義であるという理屈らしい。さらに、非難の反対は賞賛である以上、氏は、その論理に忠実に従えば、中国人が日本人を殺すのは被害者が加害者を殺すのは当然であるだけでなく賞賛されるべき行為だと、主張していることになる。
繰り返すが、気は確かなのだろうか?
(岩波書店 1950年6月第1刷 1998年12月第12刷)