書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「人民網日本語版」2008年06月15日、「中国、アジア問題で日本との協力を強化」から

2008年06月15日 | 抜き書き
 〈http://j1.peopledaily.com.cn/2008/06/15/jp20080615_89692.html〉

“外交部の姜瑜報道官は14日、記者の質問に答える時、「中国は、アジア太平洋地域の発展に共に力を尽くすという中日首脳の共通認識に基づき、アジア問題における両国の協調と協力を強化し、災害対策協力を含め、両国およびアジア諸国民に幸福をもたらしていきたい」と表明した。 ”

 日中“良好”で、結構である。

「池田信夫 blog」2008-06-15、「福澤諭吉―文明の政治には六つの要訣あり」から

2008年06月15日 | 抜き書き
“いずれにせよ思想家を評価するには、彼に帰せられているテキストがどこまで彼の書いたものかという文献考証が第一歩であり、そんな基本的な作業もしないで福沢が論じられてきたのは驚きだ。本書の論証は不十分で、『真実』を参照せよとのみ書かれていたりして、わかりにくい。しかしこれまで、ともすれば左翼的な歴史家によって、日本近代のナショナリズムがウルトラナショナリズムに変質した典型として批判されてきた福沢の後期の言説が彼のものではないとすれば、近代史を書き換える可能性もある。「福沢先生」の後輩諸氏には、まず福沢全集の見直しからやってもらいたい。”
 〈http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d2c535a39522975b633aa0d6ab594f1f)

 たぶんしないでしょう。みなさん「第二現実」の電波的社会主義者でなければ福沢を御本尊に祀り上げて飯の種にしているだけの売僧ばかりだから。全部が全部とはいいませんが。

 →本欄2005年06月24日「桑原三郎『福沢諭吉の教育観』」
 〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/d/20050624〉

 →本欄2005年05月31日「井田進也『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』」
 〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/d/20050531〉

 →本欄2006年06月24日「今週のコメントしない本」
 〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/d/20060624〉

 上記最後の「今週のコメントしない本」から引用。

 “最近出版されたばかりの史学会編『2005年の歴史学界 回顧と展望』(吉川弘文館、2006年5月)を読むと、現行『福澤諭吉全集』の内容を検証した研究は全く名が挙がっていない(「日本 近現代 三 社会・文化 1」、中村崇高執筆、同書168頁)。昨年1年間を通じ、日本史学界でまったく発表されなかったということらしい。
 単なる取りこぼしかもしれない。しかし、昨年出た『2004年の歴史学界 回顧と展望』で、出版年度の関係から言って当然収録されるはずの平山氏のこの書籍がそもそも収録されていないところを見ると、どうもそうではないようでもある(→2005年7月4日、「史学会編『2004年の歴史学界 回顧と展望』」)。
 どこかの真面目な――真理を愛するという意味で――学者が、平山氏の問題提起を真摯に受け止めて、論文なり学術発表なり何らかの反応を示していたとしても、福沢を飯の種にしているだけの一群の教官方は、存在しないはずの書籍が巻き起こした風波などもちろん存在せずとして黙殺を決め込んでいるのではないか。”

 ちなみに『2006年の歴史学界 回顧と展望』(昨年出版)も、事情は同じだった。だから私の感想も同じである(2007年版がもうすぐ出る筈だ)。いまのところ、強いて付け加えるとすれば、恥を知れ恥を、というくらいか。

竹山道雄 「人間は世界を幻のように見る」(「正論」昭和57・1982年10月号掲載)から

2008年06月15日 | 抜き書き
“私は戦後十年に次のように記した。
 ――人間はナマの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮べた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをナマの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば「第二現実」とでもいったようなものが成立する。これは映画に似ている。すなわち、ある特定の立場から材料を取捨選択してモンタージュしてでき上がったものであり、現実を写しながら現実とは別なものである。この映画は、それ自身の中に因果の法則をもち、筋書をもち、昂奮させ陶酔させる・・・・・・進歩主義的世界像も「第二現実」というタイトルをもった映画である(「昭和の精神史――主観をもった主体」の章)。
 (中略)
 人間は思い浮べた世界像――第二現実――を経験している。人間は世界を幻のように見る。そして、これはただ日本人だけの性向ではなく、人間そのものに共通である。” (引用は竹山道雄『歴史的意識について』(講談社、1983年12月)から。同書82-83頁)

 たとえば昨日欄で言及した狭間直樹氏などは「第二現実」に生きる人なのであろうが、しかしながら、人間がおしなべて世界を幻のように見る存在であるのなら、著者も認めるように、「第二現実」は進歩主義者だけのものではないだろう。「第二現実」とは、現代語でいえば、電波ということだから。