“いずれにせよ思想家を評価するには、彼に帰せられているテキストがどこまで彼の書いたものかという文献考証が第一歩であり、そんな基本的な作業もしないで福沢が論じられてきたのは驚きだ。本書の論証は不十分で、『真実』を参照せよとのみ書かれていたりして、わかりにくい。しかしこれまで、ともすれば左翼的な歴史家によって、日本近代のナショナリズムがウルトラナショナリズムに変質した典型として批判されてきた福沢の後期の言説が彼のものではないとすれば、近代史を書き換える可能性もある。「福沢先生」の後輩諸氏には、まず福沢全集の見直しからやってもらいたい。”
〈http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d2c535a39522975b633aa0d6ab594f1f)
たぶんしないでしょう。みなさん「第二現実」の電波的社会主義者でなければ福沢を御本尊に祀り上げて飯の種にしているだけの売僧ばかりだから。全部が全部とはいいませんが。
→本欄2005年06月24日「桑原三郎『福沢諭吉の教育観』」
〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/d/20050624〉
→本欄2005年05月31日「井田進也『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』」
〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/d/20050531〉
→本欄2006年06月24日「今週のコメントしない本」
〈http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/d/20060624〉
上記最後の「今週のコメントしない本」から引用。
“最近出版されたばかりの史学会編『2005年の歴史学界 回顧と展望』(吉川弘文館、2006年5月)を読むと、現行『福澤諭吉全集』の内容を検証した研究は全く名が挙がっていない(「日本 近現代 三 社会・文化 1」、中村崇高執筆、同書168頁)。昨年1年間を通じ、日本史学界でまったく発表されなかったということらしい。
単なる取りこぼしかもしれない。しかし、昨年出た『2004年の歴史学界 回顧と展望』で、出版年度の関係から言って当然収録されるはずの平山氏のこの書籍がそもそも収録されていないところを見ると、どうもそうではないようでもある(→2005年7月4日、「史学会編『2004年の歴史学界 回顧と展望』」)。
どこかの真面目な――真理を愛するという意味で――学者が、平山氏の問題提起を真摯に受け止めて、論文なり学術発表なり何らかの反応を示していたとしても、福沢を飯の種にしているだけの一群の教官方は、存在しないはずの書籍が巻き起こした風波などもちろん存在せずとして黙殺を決め込んでいるのではないか。”
ちなみに『2006年の歴史学界 回顧と展望』(昨年出版)も、事情は同じだった。だから私の感想も同じである(2007年版がもうすぐ出る筈だ)。いまのところ、強いて付け加えるとすれば、恥を知れ恥を、というくらいか。