清朝末期の海防派の一人・沈保の部下であった王之春のいまひとつの著作。光緒五(1879)年執筆、光緒六(1880年)出版。本書は光緒十七(1891)年広雅書局本を底本に、北京図書館蔵抄本や光緒二十二(1896)年湖北書局刻本などによって校勘したもの(東方書店の解題より)
康煕十五(1676年)年条にロシア初出。
俄羅斯人来る。其の国の察罕汗に書を貽(おく)る。 (「巻二」 本書30頁)
とある。1676年のロシアはモスクワ・ツァーリ国の時代(ロマノフ朝第二代のアレクセイ帝の即位第2年目)である。
ツァーリを察罕汗(チャガン・ハーン)と呼んでいる。ロシア人について、このくだりの後に、「俄羅斯(オロス)人はいにしえは匈奴に属していた。唐代のキルギスである。人体は大体において紅毛碧眼だが目が黒い者もいる。それは李陵の子孫だと言われている。元の臣下だったがその滅んだのに乗じて族長が自立して汗となった」云々という注釈が続く。完全にモンゴル族やトルコ族の一派扱いである。
以降、勿論朝貢国扱いで、たとえば康煕三十三年(1694)では「俄羅斯、使を遣わして入貢す」(「巻三」本書43頁)といった調子である。
さらに、同治十年(1871年)条では、「夏五月、俄羅斯、伊犁に入寇す」と、まるで『春秋』に出てくるような古典的な夷狄の描かれ方をされている(「巻十七」本書329頁)。
しかし当時の伊犁(イリ)は、それどころか新疆(東トルキスタン)全域は、ヤークーブ・ベクの乱の真最中で、新疆は清の支配から離脱して独立国状態になっていた。ロシアは混乱に乗じてイリ地方を軍事占領し、既成事実を作りあげてあわよくば併合するつもりで軍隊を侵入させてきていたのである。とうてい「入寇」などという、遊牧民の小集団が略奪目的で来襲してきたような語彙で形容できるものではなかったのだが。
(中華書局 2008年4月)
康煕十五(1676年)年条にロシア初出。
俄羅斯人来る。其の国の察罕汗に書を貽(おく)る。 (「巻二」 本書30頁)
とある。1676年のロシアはモスクワ・ツァーリ国の時代(ロマノフ朝第二代のアレクセイ帝の即位第2年目)である。
ツァーリを察罕汗(チャガン・ハーン)と呼んでいる。ロシア人について、このくだりの後に、「俄羅斯(オロス)人はいにしえは匈奴に属していた。唐代のキルギスである。人体は大体において紅毛碧眼だが目が黒い者もいる。それは李陵の子孫だと言われている。元の臣下だったがその滅んだのに乗じて族長が自立して汗となった」云々という注釈が続く。完全にモンゴル族やトルコ族の一派扱いである。
以降、勿論朝貢国扱いで、たとえば康煕三十三年(1694)では「俄羅斯、使を遣わして入貢す」(「巻三」本書43頁)といった調子である。
さらに、同治十年(1871年)条では、「夏五月、俄羅斯、伊犁に入寇す」と、まるで『春秋』に出てくるような古典的な夷狄の描かれ方をされている(「巻十七」本書329頁)。
しかし当時の伊犁(イリ)は、それどころか新疆(東トルキスタン)全域は、ヤークーブ・ベクの乱の真最中で、新疆は清の支配から離脱して独立国状態になっていた。ロシアは混乱に乗じてイリ地方を軍事占領し、既成事実を作りあげてあわよくば併合するつもりで軍隊を侵入させてきていたのである。とうてい「入寇」などという、遊牧民の小集団が略奪目的で来襲してきたような語彙で形容できるものではなかったのだが。
(中華書局 2008年4月)