http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/0251201.html
分量はわりあいあるにも関わらず、書名の由来の詮索のほか、本そのもの内容についてはたいしたことを書いていない。これでは提要にならない。あまり出来がよくない。
それはさておき、この『風俗通義』という書籍を実際に読んで、例えば私などが驚嘆するのは、著者が人間の自律的な思考や判断の能力をほぼ認めていないことである。「理」とは儒教の教え、「義」とは礼(法)の定め、そして「義」と「理」(=義理、道理)イコール「天常」(天理)なのである。ここに人間理性の存在する余地はない。
怪力乱神を斥けるという一見合理的思考なその態度も、その理由と言えば孔子がそう仰ったからというものである。要は権威に訴える論証にすぎない。
ただ、その権威として孔子と『論語』とを引く点は、注意すべきかもしれない。
分量はわりあいあるにも関わらず、書名の由来の詮索のほか、本そのもの内容についてはたいしたことを書いていない。これでは提要にならない。あまり出来がよくない。
それはさておき、この『風俗通義』という書籍を実際に読んで、例えば私などが驚嘆するのは、著者が人間の自律的な思考や判断の能力をほぼ認めていないことである。「理」とは儒教の教え、「義」とは礼(法)の定め、そして「義」と「理」(=義理、道理)イコール「天常」(天理)なのである。ここに人間理性の存在する余地はない。
怪力乱神を斥けるという一見合理的思考なその態度も、その理由と言えば孔子がそう仰ったからというものである。要は権威に訴える論証にすぎない。
ただ、その権威として孔子と『論語』とを引く点は、注意すべきかもしれない。