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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

実藤恵秀(さねとう けいしゅう) 『明治日支文化交渉』『日中非友好の歴史』 

2005年04月05日 | 東洋史
 まとめて要点だけ書く。
 前者では明治の初めから末までの日本と中国(支那)の関係は戦争時期を除いては友好的だったとし、後者では明治以後の日本と中国の関係は戦争も含めて一貫して非友好的だったとする。前者では両国間の齟齬の責任はすべて中国にあり、後者ではすべて日本にある。 
 1905年の清国留学生取締規則事件について、前者は当時の中国留学生の「自分たちの平生の行状にも問題があったからやむをえない」という肯定的な反応のみを載せ、後者は「自分たちへの侮辱差別だ」という批判反対の声だけを載せる。(さらに前者では日本政府による規則制定に抗議して大挙帰国した留学生の大半がほどなく日本に戻ってきた事実や、翌1906年が在日中国人留学生数が明治以来戦前を通じて最高に達する年である事実を特筆大書する。)
 前者はある留学生の日本賛美の手記『瑣々録』を引用紹介する。後者はおなじくある留学生の反日手記『東遊揮汗録』を紹介引用する。
 所詮はこの人も菊地三郎『中国革命文学運動史』(2003年11月9日欄)で指弾された風見鶏中国通の類だったということだろう。
 ちなみに両者の下劣度を比較した場合、軍配は「日中非友好の原因、根っコ」は日本が江戸時代に佐藤信淵が『宇内混同秘策』を書いて以来一貫して中国を征服しようとしてきたからであり、明治以後の日本政府は『宇内混同秘策』を信奉し、とくに日清戦争後はその教えを国策として中国侵略・併呑に邁進し、現在にいたっても日本の政治家の間には“『宇内混同秘策』の侵略思想”がしみ通っている云々というとんでもない嘘を初っ端から臆面もなくぶちあげる(16頁)後者に上げるべきか。

(光風館 1943年5月)
(朝日新聞社 1973年1月)