書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

文天祥「正気歌」を読んで藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫の同名の詩に至る

2014年01月09日 | 思考の断片
 文天祥「正気歌」

 上掲文天祥の原作を読み返してみれば、その「正気」とは、冨谷至先生も『中国義士伝』で注意されるように『孟子』の云うところの昔ながらの「浩然の気」である。そして私が見るところ、その序文は朱子学流の理気の気に対する正しき気(浩然の気)の勝利を宣するものとして解釈できまいか。

 藤田東湖「正気歌」

 文天祥に倣った藤田東湖の「正気歌」は、気の理解が孟子風の“こと”ではなく朱子学の“もの”にやや傾きすぎかという気がしないでもない。もっとも文天祥のオリジナルにもその気味は多少ある(とくに最初の四句「天地有正氣、雜然賦流形。下則為河嶽、上則為日星」の処がそう思える)。

 吉田松陰「正気歌」

 吉田松陰の「正気歌」は、冒頭句を「天地に正気有り」ではなく原典たる『孟子』通りに「天地に正気塞つ」としている所で明確に意思表示されていると思うし、内容がもの(物質)ではなくこと(人の行為)を謳っているので、気の指す所はまさに浩然の気そのままという印象を受ける。

 広瀬武夫「正気歌」

 広瀬武夫の「正気歌」になると、正気は浩然の気でもなくはた理気の気でもなく、日本的に翻訳された「正義」、本文中でも使われているが「日本魂(大和魂)」、もしくは単に「根性」の同意語かとすら。

 以上、おおざっぱな感想として。