書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

井筒俊彦 「中世ユダヤ哲学史」

2018年02月05日 | 哲学
 『岩波講座 東洋思想』第2巻「ユダヤ思想 2」(岩波書店 1988年1月)所収、同書3-114頁。

 そのアプローチの基になる言語への認識と感覚に感嘆しきり。私のような語学屋にとっては皮膚同然のセンスだが、見るところ思想史家・哲学学者には必ずしも備わっているものではない。それは研ぐ機会がなかったからなのかどうか。

 九世紀のユダヤ思想の表面に、はっきり現われてくる問題点の重〔ママ〕なものは、大別して三つある。(一)アラビア語の優位性、(二)イスラームを通じてのギリシア哲学との出合い、(三)イスラーム神学の合理主義的精神を体現した合理主義的聖典解釈学の発展。以下、これらの三点を順を追って概述することにしよう。  (同書5頁)

 ユダヤ思想がそれを以て行われたあるいは行われなかった、またそこで直截間接に何らかの関係を認めることのできる諸言語という要素、いわば(零)を、(一)の前に、そして(二)と(三)の後ろにも置けば、(一)(二)(三)がなぜ(一)(二)(三)であり、それぞれがどう繋がっているのか、いかに問題なのか(とりわけ(三)、ついで(二)において)が、前もっての推測はできなくても本論に進んで納得しやすくなるように思う。私の同論考の理解の仕方においては。
 すなわち、(二)は、
 アラビア語で表現されたイスラームを通じてのこれも当然ながらアラビア語で受容・表現されたギリシア哲学との出合い
 そして、(三)は、
 アラビア語で表現されるイスラーム神学の、同じくアラビア語で表現されところのギリシア哲学由来の合理主義的精神を体現した合理主義的聖典解釈学の発展