書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

マリヤ・チェーホワ著 牧原純訳 『兄チェーホフ 遠い過去から』

2018年03月25日 | 伝記
 アントン・チェーホフの妹マリヤは、オリガ・クニッペルと終生仲が良かったと、その最晩年に聞き書きの形で作成された回想録(本書)で述べている。だが同時に、兄が自分を含む家族に告げず、オリガと秘密に結婚式を挙げて事後に報告してきたことにひどく傷ついたとも、正直に書いている。ソ連時代に出たチェーホフ全集は、体制による検閲もむろんあったろうが、たぶん彼女の意向もあって、彼の聖人君子のイメージを損なうような個所は削除もしくは伏せ字にされている。
 1904年のチェーホフの死後、彼女は長く生きた。亡くなったのは1957年である。彼女は、私には鴎外の妹小金井喜美子(1956/昭和31年没)とその印象が重なる。オーリガ・クニッペルはマリーヤよりさらに長く生き、1959年に死去した。マリーヤが遺していたこの回想録はその翌年に出版されている。

 私のロシア語の師(ロシア人)は、「オーリガ・クニッペルは二流の女優」とよく言っていた。「チェーホフの芝居に出たから名声を得た。」「チェーホフがどうして彼女(など)と結婚したのか解らない。彼がとても複雑な人だったという証拠ではあるでしょうけれど」とも。
 その師に貸していただいたチェーホフの伝記(ソ連国外の出版物だったかもしれない)は、たしか、チェーホフのそういう“複雑な”面を伝える史料(売笑婦を買ったことを友人に報告している手紙など)を、部分的にだが、紹介・引用していた。手元のソ連版の全集でどうなっているかいま憶えていない。
 その伝記は、チェーホフは決して聖人君子ではなく、血の熱い、正義感の強い人間であり、そういうチェーホフを、彼自身の作品・書簡や彼を知る人々の証言から描き出すことが眼目だったと記憶する。著者も出版社も忘れていてないものだが、面白かった。それまで抱いていたチェーホフへの見方が変わった。

(筑摩書房 1991年8月)