書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

外伝「殺す側の論理」

2012年01月18日 | 思考の断片
▲「YOMIURI ONLINE(読売新聞)」2012年1月18日10時14分、ワシントン=中島健太郎「『殺す』『殺せ』に大喝采…米共和党TV討論会」
 〈http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120118-OYT1T00240.htm?from=top

 もとの発言記録で確かめた。引用ミスはない。当時の中国人に対すると同じく、ギングリッチ氏とロムニー氏に興醒めした。ひと昔近く前、反日盛んな折の中国人と同じである。
 だが、両氏のうち、ロムニー氏は、まだすこしは印象がましである。米国人を殺したから殺すと、タリバンに対する「復讐の論理」を隠すことなく語っているからだ。
 それにしても、多分に演出も入っていると思うが、「殺せ!」「殺せ!」と拳を挙げての大合唱とは何たることか。文革さえも起こせそうな野蛮蒙昧さとしか言いようがない。リンチはいうに及ばずである。
 しかし、思い返せば、同じ「殺す」でも、この場合の米国人と、文革時や反日時の中国人とは違う。
 ギングリッチ氏やロムニー氏や、そして両氏に賛同する人々は、自分が殺したい、あるいは殺すべきだと考えるから「殺す」と言っているのである。
 だが「敵を殺す」「日本人を殺す」とデモやテレビのカメラの前やネットで叫んでいた中国人は、「お上がそう言えという風向きのようだから」または「そう言って暴れたら、かえって褒められそうだし、そのうえひょとしたら実利もありそうだから」殺すと叫んでいた連中が殆どのはずである。
 林思雲氏は、だから彼らは口先だけで実際行動は絶対に起こさないと言っていた。人を殺せばその代償を払うことになる、彼らは代償を払ってまでお上の言うことに従いはしないと。彼らの本当の関心は別のところにあるのだからと。
 しかし私はこの点については氏と考えを少しく異にする。
 代償を払うことになるからやらないというのは、代償を払う必要がないならやるということだ。
 文革では実際にそうなった。年月を隔てた反日デモの際でも、たとえ人を殺しても罰せられないという確約があれば、彼らは(全員がとは言わない、一部ではあるだろう。阿Qと義和団が)、本当に日本人を殺して回っただろう。喜々として。私はいまでもそう思っている。