2017年07月01日「島田虔次「體用の歴史に寄せて」」より続き。
体と用は「事物の本体とその作用,または原理と現象」と説明してある(。先ほどの「本質」よりも「原理」のほうが宜しかろう。ただし「体と用とは,天と人とも置き換えられる」(同項)ともあって、するとつまり、体」=「理」という理解が成り立つ。「理」という「原理」である。こうしてみれば「体用一源」(体と用のもとは一つで区別はない)という議論も、「理と気は分けられない」という議論と並行したものであるという納得がいく。さらには、理と気の(因果)関係に時間の要素が乏しいわけもまた。
土田健次郎氏の『道学の形成』(創文社2002/12)では、朱子の言説において「性」=「体」だとする(「第5章 道学と佛教・道教」277頁)。朱子は人間一人一人の裡にある理を性と呼ぶからこれは当然だが、著者は「知」は「用」であるとし、この構図が「朱熹の基本」であると注意される。
(研文出版 1984年4月)
体と用は「事物の本体とその作用,または原理と現象」と説明してある(。先ほどの「本質」よりも「原理」のほうが宜しかろう。ただし「体と用とは,天と人とも置き換えられる」(同項)ともあって、するとつまり、体」=「理」という理解が成り立つ。「理」という「原理」である。こうしてみれば「体用一源」(体と用のもとは一つで区別はない)という議論も、「理と気は分けられない」という議論と並行したものであるという納得がいく。さらには、理と気の(因果)関係に時間の要素が乏しいわけもまた。
土田健次郎氏の『道学の形成』(創文社2002/12)では、朱子の言説において「性」=「体」だとする(「第5章 道学と佛教・道教」277頁)。朱子は人間一人一人の裡にある理を性と呼ぶからこれは当然だが、著者は「知」は「用」であるとし、この構図が「朱熹の基本」であると注意される。
(研文出版 1984年4月)