書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

宋元学案―卷十七横渠学案(上)

2016年08月18日 | 哲学
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 百家谨案:先生少喜谈兵,本跅弛豪纵士也。初受裁于范文正,遂翻然知性命之求,又出入于佛、老者累年。继切磋于二程子,得归吾道之正。其精思力践,毅然以 圣人之诣为必可至,三代之治为必可复。尝语云:「为天地立心,为生民立命,为往圣继绝学,为万世开太平。」自任之重如此。


 “为天地立心,为生民立命,为往圣继绝学,为万世开太平。”とは、「乃公出でずんば天地は収まらず、愚昧な民はおのれの生き方も為すべきことも判らず、馬鹿揃いの後進のおかげで失われた本来の正しい学問は再興せず、この世界に未来はない」という、いわば大言壮語にすぎないらしい。張載は、学者・思想家として実力はたしかにあったが、やや傲慢なひとだったようである。

小林標 『ラテン語の世界』

2016年08月18日 | 西洋史
 このなかで、ラテン語に対するギリシア語の関係を指して、「傍層語」=すぐ近くにあって長時間影響を横から与える言語との位置付けがなされている(「Ⅳ 拡大するラテン語」99頁)。例えば日本語では以前は中国語で今は英語がそれに当たると。
 かつて橋本萬太郎氏は、傍層語という語は使わぬまでも、殷の言語と周の言語とをギリシア語―ラテン語の、いま述べた両者間の関係に擬えられた(諏訪哲郎編 『現代中国の構図』古今書院1987/5所収「民族と言語」65頁)。どうなのだろう。

(中央公論新社 2006年2月)

近思録/卷10 -維基文庫

2016年08月18日 | 哲学
 https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%84/%E5%8D%B710

 48、人才有意於爲公,便是私心。昔有人典選其子弟系磨勘,皆不爲理。此乃是私心。人多言古時用直,不避嫌得。後世用此不得,自是無人,豈是無時?


 同じく巻12に「26、雖公天下事,若用私意爲之,便是私。」とあるが、公平にしようと思うことすら私意だというなら、意思と思惟を持った存在であるところの人間は畢竟何をしても私になる。人に公は絶対になしえない。それは自ら(=じつに)是れ人なしだからではなく自ら是れ理なしだからである。いったいに公案を聴いてるような趣きがある。