甲骨文字で書かれた言語が周代以後の漢語と同じものだったのか、近いものだったのかということもはっきりとはわかっていない。甲骨文字の中の音符の使い方を見ると漢字のそれとそう違っていないので、甲骨文字で書かれた言語が周の時代の言語とそれほど違っていたとは思われないが、はっきりしたことはわからない。例えばギリシャを征服したローマ人はギリシャの高い文化とともにギリシャ語の単語を多数吸収したため、ラテン語の中には多くのギリシャ語がはいっている。しかし、それではギリシャ語とラテン語が同じかというとそうはいえない。甲骨文字で書かれている言語と周の漢語の間にもこのギリシャ語とラテン語のような関係があったことを充分考えられることであり、甲骨文字で書かれた言語はまだこれからの解明に待つところがたくさんある。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書65頁)
長江の北では、例えばオンドリは公鶏、メンドリは母鶏といっているが、長江の南に行くと、オンドリは鶏公、メンドリは鶏母という。タイ系の言語や南アジア系の言語の一部では形容詞は名詞の後にくるのが原則で、この鶏公、鶏母という言い方はその名残りであると考えられる。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書75頁)
唐の都長安で日本の留学生が学び始める前には、中国では「たべる」ことを「食」といっていたが、一〇世紀ごろを境として「喫」というように変わった。同様に同じ時期に「のむ」ことも「飲」から「喝」に変り、「いぬ」が「犬」から「狗」、「め」が「目」から「眼」に変っている。このような文化的な拘束を受けない(カルチュラリー・アンバウンド)、自然環境や社会組織が変っても変える必要のない言葉が大きく変ったということは、大規模な人の移動があったことによるはずであるが、東アジアの歴史を研究している人たちは、このことをまだあまり具体的には明らかにしていない。〔中略〕基本的な単語が変るという、世界の言語史のうえでもあまり例のない事態が起こっていることから見ると、相当な規模の社会変動があったと推定できる。/日本の歴史にも似たような例が一つある。日本語には、かつて過去の助動詞と完了の助動詞があったが、現在の日本語には昔の完了の助動詞からきた「た」一つしかなくなっている。この変化がいつ頃起こったかについては、応仁の乱の頃という説が有力である。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書80-81頁)
(古今書院 1987年5月)
長江の北では、例えばオンドリは公鶏、メンドリは母鶏といっているが、長江の南に行くと、オンドリは鶏公、メンドリは鶏母という。タイ系の言語や南アジア系の言語の一部では形容詞は名詞の後にくるのが原則で、この鶏公、鶏母という言い方はその名残りであると考えられる。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書75頁)
唐の都長安で日本の留学生が学び始める前には、中国では「たべる」ことを「食」といっていたが、一〇世紀ごろを境として「喫」というように変わった。同様に同じ時期に「のむ」ことも「飲」から「喝」に変り、「いぬ」が「犬」から「狗」、「め」が「目」から「眼」に変っている。このような文化的な拘束を受けない(カルチュラリー・アンバウンド)、自然環境や社会組織が変っても変える必要のない言葉が大きく変ったということは、大規模な人の移動があったことによるはずであるが、東アジアの歴史を研究している人たちは、このことをまだあまり具体的には明らかにしていない。〔中略〕基本的な単語が変るという、世界の言語史のうえでもあまり例のない事態が起こっていることから見ると、相当な規模の社会変動があったと推定できる。/日本の歴史にも似たような例が一つある。日本語には、かつて過去の助動詞と完了の助動詞があったが、現在の日本語には昔の完了の助動詞からきた「た」一つしかなくなっている。この変化がいつ頃起こったかについては、応仁の乱の頃という説が有力である。 (橋本萬太郎「第Ⅲ章 民族と言語」 本書80-81頁)
(古今書院 1987年5月)