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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

横地清 『日本をすり抜けた西洋 北斎の知恵、そして写楽』

2016年08月11日 | 抜き書き
 数学的遠近法を理解し活用するには、当然、ユークリッド幾何学の素養が必要となる。しかし、当時〔16世紀後半~17世紀初頭〕の日本のどこにもそれはないし、その予備的研究すら存在しなかったのである。これでは、幾何学的体系としての数学的遠近法に気づく余地は、当時の日本には存在しなかったと言ってよい。 (「第一章 日本をすり抜けた西洋美術」 本書12頁。〔〕は引用者注、以下同じ)

 一方、日本と同じ時期の中国では、マテオ・リッチと徐光啓の協力で、クラヴィウス編纂の十五巻本の『ユークリッド原本』の第六巻までが、一六〇七年、『幾何原本』(天学初函本)として翻訳公刊されたのである。
 しかし、『幾何原本』も、日本では宣教師マテオ・リッチの手になる書物として、禁書とされた。『幾何原本』の輸入が解禁されたのは、将軍吉宗の時代、一七二〇年のことである。
 しかし、日本の事態は、『ユークリッド原本』が、幾何学の体系化の基礎となることも、自然科学の体系化の雛形とされることも、そしてまた、数学的遠近法の体系化の基礎となることも、いずれも、知らされることもなく、再び、折角の好機を逃してしまったのである。
 (「第二章 『浮絵』の画法――『正統派』と『模索派』」 本書35頁)

 佐竹曙山〔一七四八~一七八五〕や司馬江漢〔一七四七~一八一八〕を、「数学的遠近法に関する正統派」または単に「正統派」と呼ぶことにする。一方、西洋や中国から舶来の「浮絵」や、世上に流布する「浮絵」に学びつつ、「浮絵」の画法を模索していった画師、つまりは本来の数学的遠近法やアルベルティの簡便法の研究に立ち入ることなく、「浮絵」の画法を模索していった画師を「浮絵に関する模索派」または単に「模索派」と呼ぶことにする。豊春〔歌川・一七三五~一八一四〕も〔葛飾〕北斎〔一七六〇~一八四九〕も「模索派」に属する。 (「第二章 『浮絵』の画法――『正統派』と『模索派』」 本書32頁)

 本書のもう一つの主題である東洲斎写楽も当然のことながら、「日本の絵画史の負の遺産」を背負った浮世絵師である。ところが、東洲斎写楽〔活動時期一七九四~一七九五〕は、自らが、素人の絵上手であることを意識してか、あるいは蔦屋重三郎に励まされてか、「日本の絵画史の負の遺産」に挑むことなく、「のっぺら顔」と「線描き」だけで、人物のい顔面の表現に挑戦した。つまり、数学的遠近法、陰影法はもとよりのこと、多様な向きの人物、多様な絡みの人間関係も想定外のこととして、大和絵の技法をそのまま生かしたのである。言いかえれば、「のっぺら顔」と「線描き」だけでも、人の感情や気持ちをここまで表現できるのだぞ、と言わぬばかりの「大首絵」を描いてみせたのである。 (「はじめに」 本書xiv頁)

(東海大学出版会 2008年9月)