書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「メドヴェージェフ大統領、国立プーシキン記念ロシア語大学を訪問」

2011年06月08日 | 思考の断片
▲「Президент России」6 июня 2011 года, 17:30 Москва「Посещение Государственного института русского языка имени А.С.Пушкина」
 〈http://www.kremlin.ru/news/11484

 プーシキン記念ロシア語大学への訪問は毎年6月6日を「ロシア語の日」と定める大統領令にサインしたこと合わせてのことらしいが、その背景についてはよくわからないし措く。“それに引き替え日本語の日がない我が国は”うんぬんかんぬんという安易なひるがえり論法も採らない。ここは昔は、パトリス・ルムンバ名称民族友好大学を除けば外国人のためのロシア語専門教育機関とされていて、私が外大の学生だった当時は、日本人はアジア・アフリカ諸国からの留学生を優先するルムンバ大学よりプーシキン大学のほうが入りやすいと言われていた。同級生のなかにもここに留学した者がいる。いまにして、私もすればよかったかなという思いも。もっとも当時のあの国は、ブレジネフ時代の末期からアンドローポフ・チェルネンコと続く短期政権の時代で、社会が硬直し沈滞しきっていて、おもしろくも何ともなかったろうけれど。(1980年のモスクワオリンピック直後にソ連――いまのバルト三国地域を含め――を訪れて、あの国のひどい実情をこの目で見、辟易して帰ってきたところだった。だから留学しなかったのだが。)

「Injustice may spark fresh Kyrgyzstan violence - Amnesty」 を読んで

2011年06月08日 | 地域研究
▲「BBC NEWS」8 June 2011 Last updated at 00:35 GMT.
 〈http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-13691783

 昨年のキルギス騒乱(ウズベク人迫害)で、キルギス軍部、あるいは政府による何らかの関与があったのはほぼ確実のようである(たとえば治安部隊による Nariman 村襲撃事件→こちら。また騒乱後の警察のウズベク人に対する差別的措置→こちら)。ただそれが中間にいる誰か個人(あるいは複数・居場所は国の内外を問わず)の意思と命令によるものであったのか、それとも組織(政府機関)としての決定であったのかは、現状判らない。

「普天間移設:米上院、統合案審議へ」 を読んで

2011年06月08日 | 地域研究
▲「沖縄タイムス」2011年6月8日 09時42分。
 〈http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-06-08_18915/〉 

 自分が生まれ育ち、かついまも生きる土地の1割から2割(県土面積の約11%・沖縄本島では約19%)をよそ者しかも異国人に我が物顔に占拠されているというそのことだけで、沖縄人は理屈抜きに腹を立てて当然ではなかろうか。それに附随する種々の利害計算――利も害も――が来るのは、そのあとではないか。

「500 people elected to Vietnamese parliament」 を見て

2011年06月08日 | 地域研究
▲「Thanh Nien News.com」6/3/2011 15:15.
 〈http://www.thanhniennews.com/2010/Pages/20110603152930.aspx

 投票が行われたのは22日で、私がベトナムに行く前の日だった。(南沙諸島での中国船とのトラブルといい、それを承けてのデモといい、それにしても間の悪いことである。)
 しかし選挙の翌日や、私がハノイを離れる27日までも、ハノイ市内のあちこちでは、投票を呼びかけるポスターや看板がいくつも見られた。ハノイ郊外と、市内ホアンキエム湖の周囲には、ひときわ大きな看板が立っていた。ただ古い家並みを残す旧市街(いわゆる36街)には、景観を損ねるためか、その種のいわば殺風景な掲示物はなかった。(通りを横断する赤いバナーは頻繁にあったが、ベトナム語なのでなんと書いてあったのかわからない。そして36街ではそこまで説明できる英語を話す人に出会わなかった。)その替わりということか、旧市街では、家々の二階の窓に国旗が目立った。
 ベトナムでは国会議員には共産党以外の人間も自薦で立候補できるが、事前に共産党を主体とする組織ベトナム祖国戦線の推薦あるいは審査をうけなければならない(遠藤聡「ベトナムの国会と立法過程」)。だから結局は翼賛選挙である。ベトナムは一党独裁国家だから当たり前ではあるのだが、ただし、選挙民が拒否権を発動できる、あるいはする範囲とその度合いはたとえば過去のソ連時代の国会(最高会議)選挙とは大幅に様相を異にするし、現代の中国のそれ(全国人民代表大会選挙)とも違っている。
 中国では一般国民(公民)に国会議員(全国人民代表大会代表)の選挙権さえない。ただ実際の運用は別として、中国の基層部分(県レベルまで)のみに行われている直接選挙では、秘密投票が制度として認められているようである(参考・諏訪一幸「北京便り(8)」)。ソ連(1988年の憲法改正まで)では、公民に国政選挙権はあったが、候補者は全員共産党党員で党の指名した人物であり、実質的には信任投票であった。さらには秘密投票ではなく、つまり一般のソ連国民に参政権と拒否権はなかった。
 記事によれば、今回の選挙で、ベトナム共産党中央委員会が指名した候補182人のうち、15人が選挙民から駄目だしをくらって落選したという。その一方で、投票率は99.51パーセントと、旧ソ連や中国とかわらない不自然な高さであることも記事は伝えている。つまり、投票は強制されていて、行かなければ何らかの不利益もしくは罰を蒙るということである。この二つが両立しているところがよくわからない。ソ連や中国の一党独裁を多少だが知る私には、ベトナムの一党独裁制はちょっとしたミステリーである。
 ところでベトナムにいるあいだ、喧嘩口論のたぐいをついぞ目にしなかったが、人口稠密な旧市街での交通事故でも(バイクも人も半端ない多さである!)、野次馬というものをほとんどまったくといっていいほど見なかった。このところ、たとえば中国とはたいへんな違いに思えたが、そのこととこのこととは、なにか関係があるのかどうか。