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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ウィキペディア『日本書紀』 “7 書紀講筵と書紀古訓” 条

2017年12月24日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80#%E6%9B%B8%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5%E3%81%A8%E6%9B%B8%E7%B4%80%E5%8F%A4%E8%A8%93

 『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中にて時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。〔中略〕開講から終講までに数年を要する長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。

『徒然草』第209段「人の田を論ずるもの、・・・」

2017年12月11日 | 抜き書き
 引用はこちらから。

 人の田を論ずるもの、訴(うった)へにまけて、嫉(ねた)さに、「その田を刈りて取れ」とて、人をつかはしけるに、まづ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」といひければ、刈るものども、「その所とても、刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらん」とぞいひける。
 理(ことわ)り、いとをかしかりけり。


 「刈るべき理」の「理」と、「いとおかしかりけり」の「理(ことわり)」は意味が異なっている。前者はないが、後者は(あって)おもしろいというのだから。後者はいまで言う「理屈」である。前者はなにか。

平川祐弘 『アーサー・ウェイリー 「源氏物語」の翻訳者』

2017年11月29日 | 抜き書き
 私個人は〔中略〕ウェイリーという学者を通して西欧の偉大さをも学んだという気がする。が、同時に、私はウェイリーやサンソムを物差しとして、その後に来たもろもろの西洋の二流、三流以下の、そしてそれだけに時に横柄で思いあがった、西洋の日本学者の値踏みもしてきたということである。昨今の西洋の日本学界には理論倒れの、不毛な、お悧巧さんの学者が、イデオロギーを振りかざして、大きな顔をしている。なぜこんな政治的に立ちまわる学者が幅を利かせるのだろうか。なぜテクストに密着する学問をきちんとしないのだろうか。論文制作に際しオリジナリティーを求めるあまり理論倒れになり、そのために原典精読を疎(おろそか)にするからであろうか。
 理論で外界を支配しようとする支配欲にとらわれる人よりも、テクストの前に謙虚に頭を垂れる人が私には好ましい。人文学の世界でドグマ一辺倒の学者ほど哀れなものはない。かつての日本ではモスクワ本位のテーゼや北京本位のインターナショナリズムに一部知識人が傾倒した時期があった。幸いにもそうした外国崇拝の時代は遠くに去った。 
(「あとがき」 本書475頁)

(白水社 2008年11月)

洪誠著 森賀一恵/橋本秀美訳 『訓詁学講義 中国古語の読み方』

2017年11月28日 | 抜き書き
 解放後は、マルクスレーニン主義・毛沢東思想の指導の下、訓詁学は漢語の実際から出発して、十分な資料を掌握し、歴史的観点を運用し、具体的な問題を具体的に分析し、ますます精緻になってきており、先人を超える巨大な成果が得られるはずである。 (「第一章 緒論」 本書35頁)

 訳者橋本氏による「あとがき」も、この思考の系譜に立っての紹介である。

(2003年12月)

加地伸行『中国人の論理学 諸子百家から毛沢東まで』(中央公論社 1977年9月)から

2017年11月21日 | 抜き書き
 このようにして経学の歴史は、研究の成果として膨大な注釈を残すこととなった。その注釈のなかから、経学固有の約束が数多く作られるようになる。たとえば、思考の公式を作る、ということをする。一例をあげると、歴史上の人物に対して評価をはじめに与えておく。尭や舜は善政の代表者、桀や紂は悪政の代表者とする。そして、尭・舜や桀・紂という固有名詞を、一種の記号として政治倫理の議論を進める。善とか悪とかという抽象的なことばで議論を進めるのではなくて、尭や桀という善悪の具体的記号を作っておき、因数分解をするようにして議論を進めるのである。
 はたして尭・舜や桀・紂が実在したのかどうか、あるいははたして善者であるのか悪者であるのかというようなことは問題でない。彼らは思考の公式上の記号として扱われるのである。
 (「第五章 経学的思考」172-173頁)

中村元 「仏教における人間論」

2017年11月20日 | 抜き書き
 『講座 仏教思想』4「人間学 心理学」(理想社 1975年7月)収録、19-63頁。

 では人間の価値または意義はどこに存するのであろうか?
 ギリシア思想においては、人間を人間たらしめるもの、自己は、つねに理性と同一視された。
 これは或る意味でインド人の見解にも対応する。古くヴェーダ文献では人間をマヌ (manu) と呼ぶこともあったサンスクリット文献一般ではマヌシャ (manuşya) と呼んだが、これらは〈考えるもの〉という意味である。〈考える〉ということは合理性を内含する。
 ところでギリシア人によると、理性は人間を獣から区別するばかりでなく、人間を神的なものに連絡すると考えられた。これはインド人の人間観といちじるしい対比をなすものである。インド人は人間や獣を通ずる生命の一体感を認めていたし、その一体感は時には植物まで及ぶと考えられていた。
 この見解からの帰結として、ジャイナ教徒、あるいは仏教諸国のあいだでは、生きものに対する憐れみを尊ぶのである。シナ・日本の寺院では捕らえた魚鳥を放つという「放生会」の儀式が行われ、また菜食主義で通す人々もいた。こういう態度は古代西洋には見られぬものであった(ただし菜食主義は古代西洋にもあった)。 
 これに対して人間と獣とを峻別する見解が諸国にあった。エピクテイトスは獣を軽蔑していた。〔後略〕
 (同書20頁)

 ※2015年11月01日「大井玄 『呆けたカントに『理性』はあるか」 より」をも参照すること。

慣用句 - Wikipedia

2017年07月21日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A3%E7%94%A8%E5%8F%A5

 慣用句は一種の比喩(暗喩)表現でもあり、それらの意味は固定化している。 
 成句は、慣用句の定義とほぼ重なるが、「無くて七癖」のように古くから慣習的に用いられている文句も含み、諺にも近いニュアンスをもつこともある。


 慣用句と諺(ことわざ)は混同されやすく、分類も困難であるため、諺と慣用句双方を掲載した辞典が多い。厳密には、諺は一つの文で独立語として成立し、格言、教訓や皮肉、物事の法則を含ませているものである(例「弘法も筆の誤り」「負けるが勝ち」「三日坊主」など)。そして品詞では名詞に区分される

 成語も、成句・慣用句と混同して用いられることが多いが、故事成語の略として使われることもある。また、中国語圏では、日本における四字熟語とほぼ同義に用いられる。 
(下線は引用者)

Andrew Browne 「輝き失う香港、中国の威圧が強まる恐れ」

2017年07月07日 | 抜き書き
 The Wall Street Journal 日本語版、2017 年 7 月 5 日 17:19 JST 

 香港の輝かしい金融センターとしての地位は「法の支配」が続く限りは安泰だ。英国から受け継いだこの遺産は、最終的には中国政府が法の支配をどう解釈するかにかかっている。
中国最高人民法院(最高裁判所に相当)の院長は数カ月前、司法の独立性という西側諸国の考え方は「誤りだ」と非難した。



George Lakoff and Mark Johnsen, "Metaphors we live by"

2017年06月16日 | 抜き書き

  We saw in the ARGUMENT IS WAR metaphor that expressions from the vocabulary of war, e.g., attack a position, indefensible, strategy, new line of attack, win, gain ground, etc., form a systematic way of talking about the battling aspects of arguing. It is no accident that these expressions mean what they mean when we use them to talk about arguments. A portion of the conceptual network of battle partially characterizes the concept of an argument, and the language follows suit. Since metaphorical expressions in our language are tied to metaphorical concepts in a systematic way, we can use metaphorical linguistic expressions to study the nature of metaphorical concepts and to gain an understanding of the metaphorical nature of our activities. ('2. The Systematicity of Metaphorical Concepts', p. 7)

  The weak homonymy position would deny that we understand the abstract in terms of the concrete or that we understand concepts of one kind in terms of another kind at all. It claims only that we can perceive similarities between various concepts and that such similarities will account for the use of the same words for the concepts. ('18. Some Consequences for Theories of Conceptual Structure,' p. 112)

(London: The university of Chicago press, 1980)