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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「コトバンク 世界大百科事典 第2版の解説」しんがふ【新楽府 Xīn yuè fǔ】

2018年04月07日 | 抜き書き
 https://kotobank.jp/word/%E6%A5%BD%E5%BA%9C-46182

 中国,唐代に新しく作られた楽府題の詩。楽府とはもともと前漢の武帝時代に設けられた音楽の役所のことで,後にはそこで採集された歌謡そのものを指すようになる。歌詞は本来作者不明のものが多く,六朝時代には〈古辞〉と呼ばれ,替歌もさかんに作られた。なかには題は同じでも曲から離れた純粋の朗読詩も少なくない。唐代になると,古楽府の大半は演奏されなくなり,楽府といっても題だけを借りるだけで,まったく自由な創作となり,やがて題そのものも新しく作られるようになる。

 『文選』に収録された楽府を通読してみると、まったくそのとおりで、のちになると(といっても『文選』はまだ六朝時代だが)、題だけ借りる、あるいは好きな題の最後に「歌」「行」「引」の他これこれとだけ付けておけば、あとは体裁(一句あたりの字数そして句数)すら自由である。韻の問題をのぞけばほとんど自由詩の状態を呈している。

小西甚一『日本文藝史』Ⅲ(講談社 1986年4月)より

2018年02月18日 | 抜き書き

 詩に「理」およびそれの認識される「義理」(yili)を尊重するのは、欧陽修よりあと宋代の詩論の主流をなすが、それは新儒学の「理」志向と同じ基盤に立つものである(青木-一九三五b・六七―六八)〔引用者注〕。義理を重視する詩は、わかりやすいのだけれど、しばしば「講義」(jiangyi)すなわち説明過剰になりがちな欠点をもつ。 (「中世第二期の達成 一 漢詩文の再興 (一)『理』の表現」、本書370頁。下線は引用者、以下同じ)

。青木正児『支那文学思想史』内篇を指す。

 義理の重視と美しさへの志向は、文章においても併存する。それは、散文と駢文の併存に対応している。このばあい、散文とは、古典語で書かれた韓愈・柳宗元ふうのスタイルをさす。しばしば「古文」ともよばれる。白居易ふうの散文は、すでに中世第一期からおこなわれていたけれども、緊密な構成による論理の徹底を本領とする韓・柳ふうの散文は受容されなかった〔略〕。それが十四世紀よりあと日本でも流行するようになったのは、欧陽修や蘇軾たちにより韓・柳ふうの散文が宋代の主流をなしたことの影響であろう〔略〕。とりわけ、その主導者だった蘇軾が禅への深い理解をもっていたことは、留学僧たちをいっそう韓・柳ふうの散文へ引きつけたにちがいない。ところが、それは、緊密な論旨の構成により享受者を感動させようとするものだから、どうしても義理の精錬を要することになる。これに対し、駢文のほうは、文章の内質よりも言いかたの美しさを志向するのが本性であり、それは禅林の駢文でも変わらない。 (「中世第二期の達成 一 漢詩文の再興 (一)『理』の表現」、本書372頁)

 宋代文化の核となった「理」は、十四世紀の日本にさまざまな面で滲透したそのひとつの面が論史書である。史書としては、既に『愚管抄』があるけれども、その「理」は天台宗の形而上学と共通点をもち、現世の在りかたを政治学の立場から批判するわけではない。ところが、北畠親房(ちかふさ)〔原文ルビ〕(一二九三―一三五四)の『神皇正統記』は、彼の抱く政治理念から日本の社会がいかに在るべきかを論じたもので、同じく論史ではあっても、慈円とは立場を異にする。それは、宋代の史学を承けたものと考えられる。シナの史書は、すべて政治批判のために述作されたのであり、事実だけを客観的に記述しているばあいでも、その奥底には無言の、しかし厳正な批判を潜める。それが宋代になると、政治の流れを「理」に基づいて正面から批判しようという意識が加わり、とりわけ政権の継承に関する正統論が有力な題目として採りあげられた。司馬光(一〇一九―八六)の『資治通鑑(しじつがん)】〔原文ルビ〕は、こうした傾向を代表する巨業だが、親房の論史は、これと共通な立場で書かれている。そこには、直接の影響関係を認めてよい。親房は『資治通鑑』を学習していたからである。 (「中世第二期の達成 五 和漢混淆文の普及 (一)論史と講史」、本書491頁)


小西甚一 『日本文藝史』 Ⅰ

2018年02月15日 | 抜き書き

 孔子は晩年に易を研究した。易は、もともと占いの方法である以上、超自然的な存在から啓示を与えられるはずのものだが、孔子の易研究メモである「繋辞」から知られるごとく、孔子はそれを人間・社会における変化および変化を貫く秩序の理法として認識しなおした。驚嘆すべき合理精神というほかない。この研究メモは、宋代にいたり、程子や朱子の性理学にまで発展し、儒教の合理主義はその頂点に達するわけだが、それよりはるか以前の段階でしかない合理主義さえ、七世紀ごろのヤマトにとっては驚異だったはずで、そうした合理性が日本で浸透してきた九世紀に、草や木と語ることのできた言霊は、すくなくとも面立った場での力を失い、新しい「雅」の文藝に席を譲るほかなくなってゆく。八世紀は、その交代期に当たると考えられる。
  (「古代 言霊の時代」“一-(二)雅の意識と文人世界”、本書248頁。下線は引用者)

(講談社 1985年7月)

鮑彤氏の「公正」の定義

2018年01月29日 | 抜き書き
 出典:ツイッター『美国之音中文网‏』【鲍彤:人人发表意见,人人做出自己的判断,这就是公正】2018/1/26

  鲍彤:我想你提出来的问题是一个有中国特色的问题。因为平反这个东西在全世界不存在。公正评论、公正评价这样一个事情,实际上就是言论自由。人人发表意见,人人做出自己的判断,这就是公正。但是在一个没有言论自由的国度里面,要想达到一个公正的评价是很困难的,是一个中国特色的问题。 (太字は引用者)

 「公正评论、公正评价这样一个事情,实际上就是言论自由。人人发表意见,人人做出自己的判断,这就是公正。」という定義が興味深い。

ウィキペディア「死海文書」から

2018年01月28日 | 抜き書き
 “5 死海文書の意義”条。

 1996年版の『オックスフォード考古学ガイド』は死海文書について、〔略〕死海文書によってわかったことは、2000年前のユダヤ教文書が現代の学者たちの想像以上に豊富なバリエーションを持っていたことということであり、それによって現代のヘブライ語聖書は歴史的には三つの源(マソラ本文、七十人訳聖書のオリジナルとなったヘブライ語聖書、サマリア五書(サマリア人共同体の伝えてきたモーセ五書))から発しているという広く定着していた仮説が覆されるに至った。現代の研究者たちは紀元100年ごろに行われたユダヤ教での聖書正典化作業以前ヘブライ語聖書の内容は非常に多様かつ流動的なものであったと認識している。〔と書いている。〕

山田孝雄 『國語の中に於ける漢語の研究』

2018年01月04日 | 抜き書き
 国語の中に存する外来語は観念語に限るものにして、語法上の関係を示す部分、即ち助詞、複語尾等は決して如何なる外国語よりも借用帰化せしむることなし。 (「第一章 序説」本書15頁。原文旧漢字、以下同じ)

 わが国語は外来語に対しては頗る寛容にして無制限にその流入を許せる如くなれど、又厳粛なる境界線の立てられるるありて、その線内には一歩も外来語の窺窬することを許さざるなり。その境界線は〔中略〕次の如し。
 名詞  数詞  状態の副詞
右の三種に於いて漢語が汎濫せりといふべく、これらは外来語の流入の自由区域といひうる程に寛大なり。
 代名詞  は 過去に於いて漢語の頗る跋扈せしものなるが現今の口語にては「僕」一語のみ。
 以上は外来語がその形のまゝに入らむとすれば入り得る範囲なり。この外の区域が外来語のそのまゝの形にては入ることを許さざるなり。
 形容詞  動詞  すべて用言にはそのまゝの形を用ゐたる例なし。但し外来語を語幹として用言の形に活用せしめたる例はあり。又サ行三段の語が外来語を伴ひて動詞として活動せしむること古来より行はれたるが現代は殊にその例多し。
 以上、用言には外来語の帰化して入ることは許せり。されど、それは形質共に国語化したるにあらざれば決して入れざるものにしてこの規律は厳重に守られてあるなり。
 接続の副詞(また、或はの類)
 感動の副詞(あゝ、おゝ、いざの類)
 助詞(人がの「が」花はの「は」の類)
以上は外来語の侵入を断じて許さぬ区域にして、古来曾て外来語の窺窬を許したること無し。
 (「第九章 結論」本書501-502頁)

(宝文館 1940年4月初版発行 1958年11月訂正版第1刷発行 1978年11月訂正版第3刷発行)

ウィキペディア『万葉集』

2017年12月24日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86#%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B

 万葉集の諸本は大きく分けて、古点本、次点本、新点本に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の九割にあたる四千以上の歌が訓みをつけられた。確実な古点本は現存していない。
 (“2 諸本と刊本”)

 近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖、荷田春満、賀茂真淵、加藤千蔭、田安宗武、鹿持雅澄、長瀬真幸、本居宣長らが万葉集研究を展開した。 (“6 研究史”)

ウィキペディア『古事記』

2017年12月24日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

 本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡はすべて一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神の名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している。 (“1.5 表記”)

 『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。第二次世界大戦後は、倉野憲司や武田祐吉、西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。
 (“2 研究史”)

ウィキペディア『釈日本紀』

2017年12月24日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80

 史料には『上宮記』、『日本紀私記』、『風土記』、『古語拾遺』、『天書』、『安斗智徳日記』、『調連淡海日記』、『先代旧事本紀』等、現在では散逸している書物を参照しており、これらを逸文として残している。『日本紀私記』などは、奈良から平安初期の朝廷でしばしば行われた『日本書紀』の訓み方の講書記録にすぎなかったが、兼方は卜部家に伝わる家説に諸種の私記を併せ、解題・注音・乱脱・帝王系図・述義・秘訓・和歌の7部門に分け、兼方の厳密な書紀原文解釈の集大成とした。このため『古事記』、『日本書紀』の欠を補う史料として評価が高い。


ウィキペディア『日本紀講筵』

2017年12月24日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5

 博士ら講義担当者は講義にあたって予めテキストに相当する覚書である『日本紀私記』を作成した。主に本文の訓読に関する記述が多いが、中には内容にまで踏み込んだものもある。これらの私記は、漢文で書かれた『日本書紀』を本来の伝承形態に戻って解釈することに力を注いでいると考えられている。現存4種の私記が残されている。また、これらの私記は後世の『釈日本紀』編纂時の資料として用いられたと考えられ、私記の逸文からの引用と考えられる部分が同書中に記されている。