goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

杉山正明/北川誠一 『世界の歴史』 9 「大モンゴルの時代」

2009年10月02日 | 世界史
 モンゴル時代に、「モンゴル」とされた人びとのなかには、じつは漢族もかなりいたのである。 (杉山正明「5 近代世界の扉」 本書259頁)

 そしてその“漢族”もまた、「ふわふわと柔らかで、多分に融通性と曖昧さをのこした」(258頁)ものであった。著者曰く、こんにちの“民族”に向けて、両者の性格と意識の分化と純化が始まるのは、明代の半ば以降、今に残る明の長城の建設によって中華・モンゴルの地の間に明確・峻厳な線引きが行われて以後のことだという。

 事実だけを直視すると、トゴン・テムルの北行から、トクス・テムルの敗死にいたるまでの二〇年間の変転のなかで、モンゴル時代の大元ウルスにおいて、「モンゴル」とされたもののうち、おそらくは半数以上が中華本土にのこった。まして、色目、すなわち「いろいろな種類」と一括されたトルコ系やイラン系、さらにはヨーロッパ系の人びとも、ほとんどそのまま残留した。かれらは、「帰った」わけではないのである。モンゴルたちが「帰った」のではないことは、中央アジア、西北ユーラシアについても、おなじことである。 (杉山正明「5 近代世界の扉」 本書259頁)

 中央アジアでは、アフガニスタンのハザーラ族やモゴール族が現代に残るその可視的な例であろう。
 西北ユーラシアでは、こんにちロシア人とよばれる民族がじつは多種多様な民族・人種の混淆であり、まさにユーラシア人の性格が強いことはしばしば指摘されることである。ある意味代表的なロシア人といっていいイヴァン四世(1530-1584)は、母親のエレーナがモンゴル系(ジョチ・ウルスの実力者ママイの子孫であるグリンスキー家の出)であった。レーニンは母方にカルムイク人(オイラット族)の血を引いている。

(中央公論社 1997年8月)

ドーソン著 佐口透訳注 『モンゴル帝国史』 全6巻

2009年10月01日 | 世界史
 原書(フランス語)1834-35年刊。野蛮で残酷なモンゴル人のステレオタイプを形成するうえで多大な貢献をなしたはずの古典的名著。著者のアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン(1779-1851)は、スウェーデンの外交官、男爵。ただしイスタンブール生まれのトルコ系アルメニア人、つまりモンゴル帝国(イル・ハーン国=フレグ・ウルス)の被害者の子孫。ここに恨み辛みはありやなしや。昔の戦争で抵抗したら殺されるのはほとんど当然ではないか。それを野蛮だの残酷だのと言うか。“フランク人”はエルサレムで何をしたか。
 それからジョチ・ウルスのことをほとんど書いてないのはどういうわけだ、個人的にバカヤロー!

(平凡社 1968年3月-1979年11月初版第1刷ほか 1994年1月初版第16刷ほか)

杉山正明 『遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』

2009年08月18日 | 世界史
 「皇帝」が中国世界の、「カエサル」がヨーロッパ世界の、そして「スルターン」がイスラム世界の最高権力者・統治者の名であり実だったとすれば、モンゴル帝国の「ハーン」(そしてルーシ・ロシアの「ツァーリ」)は、それらにはさまれた地域の、あるいはそれらにまたがりなおかつそれらの上に在った、中央ユーラシア世界の最高権力者・統治者のそれだったということだろうか。

(日本経済新聞社 1997年10月)

スラヴァ・カタミーゼ著 伊藤綺訳 『ソ連のスパイたち KGBと情報機関1917-1991年』

2009年03月22日 | 世界史
 リヒャルト・ゾルゲについて言及なし。また個人的にソ連のスパイであったかどうかさらに情報を得たかったアグネス・スメドレーとハーバート・ノーマンについても言及なし。
 この問題につき、過去の文章。
  *アグネス・スメドレー
  *ハーバート・ノーマン

(原書房 2009年2月)

山本有造編 『帝国の研究 原理・類型・関係』

2009年02月21日 | 世界史
 帝国とはなにか。「異質(ヘテロ)なエスノ・ナショナルの行政的・領域的組織を、宗主国と植民地、中心と周辺、中央と辺境という関係を基盤として、厳格な中央集権権力の下に統合する政治システム」(Moskovskogo kommercheskogo universiteta [1993] p. 119)。 (山本有造 「第Ⅰ部第1章 『帝国』とはなにか」 本書10頁)

 してみると、旧ソ連はもとより現ロシアも、米国も、そして中国も「帝国」であろう。公式帝国(領土併合)か非公式帝国(従属地・保護国設置)かという精密な分類や、さらには後者の定義に関する議論(覇権行使国や影響行使国までを広義の非公式帝国として含めるか)については、いましばらく措くとして。

(名古屋大学出版会  2003年11月)

斉藤道雄 『原爆神話の五〇年 すれ違う日本とアメリカ』

2008年09月19日 | 世界史
 1995年のスミソニアン博物館展示騒動について、現地取材に基づく著作。
 →2008年08月02日欄、「スミソニアン博物館のエノラ・ゲイ(1)

 原爆は、「よかったか、悪かったか」をまず言う日本人。
 原爆は、「戦争の一部だった」というアメリカ人。
 議論のすれ違いは、このあたりから始まっているのである。
  (「XI 半世紀の軌跡」、本書225頁)

 たしかにそうだろうが、ただしそれだけではあるまい。
 大方の一般的な(ロウワー・ミドル・クラス以下)の米国人と広島・長崎の原爆投下の是非について建設的に話し合うことは、まず不可能である。これは国家による教育もあるほか、興味がなくて自分で調べてみるということをあまりしないから、教科書に書かれていた以上の知識を持たないせいもある。あるカナダ人の知人――もと政治家秘書――いわく、「アメリカ人は先進国でもっとも外国のことを知らない国民だ」。もととなる知識が不十分であっては、教室でいくらディスカッションしてもおのずと限界があるだろう。関連する書籍や資料はいくらでも存在するし、制度的にも容易に閲覧・入手できるのだが。
 →2008年08月22日欄、バートン・J・バーンスタイン 「原爆投下は何を問いかける? 」
 →山倉明弘 「『エノラ・ゲイ』論争にゆれる米史学界 2. 史学史的背景

 ちなみに、支持(所属)政党の別で言えば、共和党員はほとんど絶望的("America is No. 1!")、民主党員は比較的可能("Maybe I'm wrong.")。
 これが、私の個人的な経験から得た印象。

(中央公論社 1995年8月)

江上波夫/伊東俊太郎 『文明移転 東西文明を対比する』

2008年05月03日 | 世界史
“本は読むが、実験はしない。だから(伝統中国では)科学は発達しないのです。” (江上波夫、「Ⅴ 科学革命の移転」、本書184頁)

 中国で(自然)科学が発達しなかったことについて、梁啓超は『清代学術概論』でいろいろもっともらしい説明をしているが、つまるところ、理由はここに尽きるのではなかろうか。研究者がみずから身体を労しないという。

(中央公論社 1984年7月)

富永健一 『近代化の理論 近代化における西洋と東洋』

2008年04月24日 | 世界史
“日本を含む東洋の宗教においては、宗教改革をつうじての「呪術からの開放」は達成されませんでした。日本に伝統的に存在してきた諸宗教からは、西洋のプロテスタンティズムの倫理のように近代思想の担い手となるものはあらわれなかったのです。それどころか、日本で一九七〇年代いらい発展のいちじるしい「新新宗教」と呼ばれる新興宗教諸教団では、まさにそれとは反対の非合理的な呪術や「超能力」の隆盛が見られ、そして驚くなかれそれらの非合理的要素は、ある宗教学者によって「ポスト・モダン」の名によって語られているのです(島薗進、一九九二)。これらの新宗教をもしポスト・モダンであるというなら、日本の宗教においては「モダン」はついに実現されないまま解体にむかい、そのあとにポスト・モダンという名のプリ・モダンがまかりとおっているといわねばなりません。” (「第二十九章 ポスト・モダン」、本書460-461頁)

“ポスト・モダン論を文化の側面における「反近代」のテーゼとして限定すれば、それは支持されうるということになるでしょうか。” (同上、本書462-463頁)

 つまり「ポスト合理主義」に非ず「アンチ合理主義」もしくは「没理性」。
 退化のすすめを支持などできず。

(講談社 1996年1月)