モンゴル時代に、「モンゴル」とされた人びとのなかには、じつは漢族もかなりいたのである。 (杉山正明「5 近代世界の扉」 本書259頁)
そしてその“漢族”もまた、「ふわふわと柔らかで、多分に融通性と曖昧さをのこした」(258頁)ものであった。著者曰く、こんにちの“民族”に向けて、両者の性格と意識の分化と純化が始まるのは、明代の半ば以降、今に残る明の長城の建設によって中華・モンゴルの地の間に明確・峻厳な線引きが行われて以後のことだという。
事実だけを直視すると、トゴン・テムルの北行から、トクス・テムルの敗死にいたるまでの二〇年間の変転のなかで、モンゴル時代の大元ウルスにおいて、「モンゴル」とされたもののうち、おそらくは半数以上が中華本土にのこった。まして、色目、すなわち「いろいろな種類」と一括されたトルコ系やイラン系、さらにはヨーロッパ系の人びとも、ほとんどそのまま残留した。かれらは、「帰った」わけではないのである。モンゴルたちが「帰った」のではないことは、中央アジア、西北ユーラシアについても、おなじことである。 (杉山正明「5 近代世界の扉」 本書259頁)
中央アジアでは、アフガニスタンのハザーラ族やモゴール族が現代に残るその可視的な例であろう。
西北ユーラシアでは、こんにちロシア人とよばれる民族がじつは多種多様な民族・人種の混淆であり、まさにユーラシア人の性格が強いことはしばしば指摘されることである。ある意味代表的なロシア人といっていいイヴァン四世(1530-1584)は、母親のエレーナがモンゴル系(ジョチ・ウルスの実力者ママイの子孫であるグリンスキー家の出)であった。レーニンは母方にカルムイク人(オイラット族)の血を引いている。
(中央公論社 1997年8月)
そしてその“漢族”もまた、「ふわふわと柔らかで、多分に融通性と曖昧さをのこした」(258頁)ものであった。著者曰く、こんにちの“民族”に向けて、両者の性格と意識の分化と純化が始まるのは、明代の半ば以降、今に残る明の長城の建設によって中華・モンゴルの地の間に明確・峻厳な線引きが行われて以後のことだという。
事実だけを直視すると、トゴン・テムルの北行から、トクス・テムルの敗死にいたるまでの二〇年間の変転のなかで、モンゴル時代の大元ウルスにおいて、「モンゴル」とされたもののうち、おそらくは半数以上が中華本土にのこった。まして、色目、すなわち「いろいろな種類」と一括されたトルコ系やイラン系、さらにはヨーロッパ系の人びとも、ほとんどそのまま残留した。かれらは、「帰った」わけではないのである。モンゴルたちが「帰った」のではないことは、中央アジア、西北ユーラシアについても、おなじことである。 (杉山正明「5 近代世界の扉」 本書259頁)
中央アジアでは、アフガニスタンのハザーラ族やモゴール族が現代に残るその可視的な例であろう。
西北ユーラシアでは、こんにちロシア人とよばれる民族がじつは多種多様な民族・人種の混淆であり、まさにユーラシア人の性格が強いことはしばしば指摘されることである。ある意味代表的なロシア人といっていいイヴァン四世(1530-1584)は、母親のエレーナがモンゴル系(ジョチ・ウルスの実力者ママイの子孫であるグリンスキー家の出)であった。レーニンは母方にカルムイク人(オイラット族)の血を引いている。
(中央公論社 1997年8月)