♪ラジオ放送・文字版「世の光」

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PBA『世の光』を文字で 

■故意か過失か / 板倉邦雄

2017年09月26日 | Weblog
2017/8/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「故意か過失か」という題でお話ししましょう。 故意とはわざとすること、過失は不注意によって起こってしまうことです。故意か過失かは大きな分かれ目になりますね。

 さて、逃れの町について故意か過失かによってその適用が違っていました。もし人が鉄の器で人を殴って死なせたら、それは故意の殺人になるので逃れの町へ逃げ込むことはできません。復讐する者の手にかかって仇討ちされても仕方がありませんでした。次に恨みが無いのに人を突き、相手が転倒して死んだとき、あるいは切っていた木が人に倒れて死なせた場合、これは故意ではなく不注意による過失になるのです。この場合は逃れの町へ逃げ込んで、復讐する人の手から救出しなくてはなりませんでした。ただし、過失の殺人者はその町の大祭司が死ぬまでその逃れの町から出てはならなかったのです。もし町を一歩でも出たら復讐する者の手によって殺害されても文句は言えませんでした。しかしその町の大祭司が死ぬと、過失殺人者は自分の故郷へ帰ることができたのです。

 以上が逃れの町に逃げ込むことのできる人の規定でした。今から3400年前のモーセの時代に定められていたということです。犯罪者はその動機と犯罪において正しく処罰されていくことが大事なことでした。それは社会の平和のためだったのです。聖書の神様は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。他方、不注意や過失によって結果的に犯罪行為になった場合には、救済の道が用意されていました。それが逃れの町だったのです。そこでとどまり、反省し、大祭司が死ぬと無罪放免になりました。なぜか。大祭司イエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって私たちの罪が赦されて無罪となり神の前に義と認められる約束と似ています。私たち罪人にとってイエス・キリストこそ逃れの町ではないでしょうか。

  (PBA制作「世の光」2017.8.22放送でのお話より )

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