花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

ぶらり四日市その二 広重の四日市②

2023年01月06日 | レモン色の町

“四日市市史研究第14号”を図書館でお借りしてきた。ここに歌川広重が描いた“四日市”が掲載されていた。

五十三次の内 東海道四十四 四日市

東海道五十三次 四日市

この絵は二枚とも四日市宿へ入る四日市橋(訂正:三瀧橋 下総人様ご指摘ありがとうございます))が描かれているに違いない。

保永堂版の橋とは、はっきりと違いが分かる。やはり十里の渡しへ向かう橋を紹介したかったようだ。

もう一度“東海道分間延絵図”四日市宿付近を掲載します。紙面の関係で東海道辻から東へ延びる“浜往還”は、斜めに記載されているが、下へ延びていたのが正しい。

さて、思案橋の碑にはこう記載されています。

思案橋の由来

此処は昔は築地と呼ばれ 新丁不動松原にある四日市港への入り口をなし 東の州浜へ長さ十四間の土橋が架かって 下を漁船が往来していた。

 天正十年六月 本能寺の変を聞くや 泉州堺に滞在中の徳川家康は 急遽 京都を避け 伊賀路を経て 当地に至り 黄昏の土橋に立ち 行き先不穏な陸路を行くか 海路を選ぶか 深く憂い思案に暮れた 其の時 地元の者 船を仕立て 夕方窃(ひそ)かに陸を離れたが 程なく怪しい海鳥の羽音あり 後より迫る追手の声の如く聞こえ 不安な夜の渡海ではあったが無事美洲知多郡常滑に渡り 恙(つつが)無く浜松に帰城したと伝えられる

 橋の名はその後 勧進橋 郡山私領時代には思案橋と呼ばれ 明治二十六年 に流さ三間余りの石橋に改められたが 昭和二十年戦火をくぐり小破し 古柳の大樹も消失 同二十八年 運がならびに水門の埋立と柳通の拡幅工事の際 惜しくも廃止された

 今日此処に当局をはじめ 地区内外の企業 並びに有志の方々のご盡力により 郷土四日市と共に生きたこの橋の数百年の歴史を 柳と共に蘇らせる願いが叶えられた

 昭和六十一年五月吉日  港地区連合自治会

家康はこの時”どうしたか?”つづく

コメント
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