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花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

垂坂山古戦場のこと

2022年03月05日 | レモン色の町

垂坂山古戦場のことをもう少し勉強してみました。南北朝入り乱れての闘いに伊勢の地は巻き込まれていきます。

2021年6月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

鎌倉幕府は、諸国に守護、荘園に地頭の制度を布いて郡司や荘園地主の権益を守ろうとしたが、実際は、百姓から力でのし上がってきた守護大名が強大な勢力を築いてきていた。

元弘3年(1333)、鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇による“建武の新政”が布かれるが守護大名はこれに反発、連立政権(室町幕府)を立てて国司と対立、南北朝時代に突入した。

伊勢の国は動乱の時代に入る。北畠顕能が伊勢の国司(南朝)になると、足利尊氏は高師秋(北朝)を伊勢の守護に任じ、北伊勢地方は戦乱の地となった。

延元4年(1339)北畠顕能は、萱生城を築き九鬼水軍に佐倉城を築かせた。戦は、安濃郡長野城の争奪戦となったが、正平6年(1351)顕能は、師秋を矢田城(桑名)で殺害した。

これに対して、尊氏(北朝)は正平3年(1352)仁木義長を伊勢守護にして安濃郡長野城に入ったが、横暴な振る舞いが多く京都へ走ってしまう。その後、美濃、尾張、伊勢三国の守護大名となった土岐頼康(北朝)は、北伊勢へと進入したが、三重郡刑部郷で北畠顕能の長男 顕泰(南朝)ら5千余騎の反撃で退散した。

これで尊氏方はあきらめず、文中元年(1372)京都から戻った仁木義長(北朝)が、朝明郡水無瀬山(大矢知)に城を構えたてこもった。南朝の軍勢、茂福城主の朝倉下総守と下野山城の見永七郎が攻めるが敗退、北朝側の義長軍は、朝倉軍を茂福城へと追い込んだ。

南朝の国司側は、二千余騎を送り垂坂山に陣を構えた。仁木義長(北朝)の兵は山上に攻め上ったが、松の木や茂みの影から一せいに矢を射たれ、谷底へ攻め落とされて五百余人が討たれた。さらに引くところを南朝の朝倉、見永と柿城の沼木三河守が攻め、仁木伊賀守、仁木左馬助、外山播磨守、今峰孫三郎、南部左京亮、南部太郎(北朝)らが討ち死にした。

垂坂山に立つ墓標の表記にこうある。

一、北畠系譜によると南北朝の頃、文中元年(1372年)北畠の重臣大宮親子入道が二千騎を率いて同山に陣取った。

一方、足利派の伊賀、伊勢の守護仁木義長 富田の豪族南部左京亮頼勝は。五百騎でこの山に攻め上ったが、大宮父子入道の戦略にかかり囲まれて谷底に追い落とされ さんざんに打ちのめされ全滅した。

<追記>混乱しておりましたので、図に改めてみました。陳謝!

地方の豪族入り混じっての代理戦争でゴザイマシタ!

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電光石火の・・ここは何処だ?

2022年03月02日 | レモン色の町

本日の“まちゼミ”で、昭和37年作品(訂正:昭和35年)“電光石火の男”のシーンは何処かを考えた。

一周年記念を迎えた“御在所ロープ―ウェイ”

本町通り

新道通り

近鉄四日市駅

そして、ここがどこか分からない。鹿化川ではないか?という意見があった。

コンビナートが見える住宅地。カーブしている。曙町あたりか???

昭和53年のマップ

鹿化川と天白川は、23号線の高架を超えたあたりで合流し、大井の川となり、千歳運河から伊勢湾へそそぐ。

川の様子は、現在の地図がよく分かる

曙町住宅付近(23号線の下付近・・・)ではないか?

コメント (2)
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昭和の消えた仕事図鑑②

2022年03月01日 | レモン色の町

イラスト:平野理恵子さん

よろず屋・・・どこの村でもあった日用雑貨を売る店。店番はおばさんがしていた。お菓子を中心に、履物、靴、ハサミ、化粧品、文房具、ちり紙、ハンカチなどを扱っていて、子供にとって楽しい場所だった。現在のコンビニの役割を昭和40年代まで担った。

イラスト:平野理恵子さん

天皇陛下の写真売り・・・戦中まで天皇は現人神であり、神様として扱われていた。天皇の写真は“御真影”と呼ばれ学校の奉安殿や家庭の床の間に飾られた。天皇の写真は人気があり、民間業者が政府黙認の下で販売していた。どこの家でも仏間の横に掛かっていたのは、販売員がいたからだ。

カフェ(純喫茶)・・・戦前から戦後にかけて、喫茶店で珈琲を飲みながら談笑することは高尚な文化だった。昭和40年代には、市街地にも純喫茶が見られた。

イラスト:平野理恵子さん

紙芝居屋・・・夕方になると神社や広場に拍子木を叩いてやってくる。自転車の荷台に紙芝居の箱を積み、上演すると、子供たちに人気を博した。終わると丸い板を立てて回転させくじをする。水飴に“のしいか”を張り付け売っていた。黄金バットは必ず“つづく”になった。

傷痍軍人の演奏・・・街角でアコーデオン等を演奏して金銭を貰う。お袋は横目でみるとこう話した、当初は復員兵だったが、後にニセ物が多くいたと。切れた足を見るのが嫌だった。

ラスト:平野理恵子さん

貸本屋・・・小学校の近くに必ずあった。白土三平の“忍者武芸帖”や“影”など懐かしい。

イラスト:平野理恵子さん

汲み取り屋・・・便所が家の中だったので、汲み取り屋さんが来ると家中匂った。天秤棒の両端に木製の桶を下げ、トイレで汲みだすと、桶の上に丸く巻いた藁を乗せ振動でこぼれ出るのを防いでいた。野菜を貰った記憶がある。

私の家の傍には、駐車場付きの大きなコンビニがある。20年前に引っ越したばかりのとき近所には、果物屋、豆腐屋、文具屋、お菓子屋など小売店が並んでいたが、大型スーパーやコンビニの登場で、すべてが姿を消した。確かに生活は便利である。だが、さまざまな小売店があった頃は、店の人たちとの会話が生まれ、地域社会が形成され、町に活気があったことは事実だ。いまは、コンビニの周りだけ人が集まり、町は静まり返っている。もちろんコンビニに人のつながりはない。ただしモノは簡単に手に入る。果たしてそれでいいのか、それでいいことなのか。昭和の仕事を概観するたびに、考えてしまうことである。

<再掲載の付録>

防人の詩 ナターシャ・グジー / Sakimori no Uta by Nataliya Gudziy - YouTube

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