花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

花の東海道⑦日本橋界隈

2021年12月14日 | レモン色の町

前回掲載の写真は“尾張屋江戸切絵図’(安政・文久)”で、どの位置にあたるでしょうか?

①の位置  日本橋南詰(明治33年)の風景。手前に建つのは東京火災保険。高札場の跡だったんですね。

② 下の写真。左が江戸橋。左右に流れるのが日本橋。正面が西堀留川河口に架かる荒布橋。

下の江戸切絵図では③になります。北側の地域ですか。

江戸切絵図で④の位置です

④日本橋本町通り(文久3年〜慶応2年の撮影)日本橋のメイン通りを北に進むと、西側に駿河町があり、越後屋(現 三越本店)など大店が並んでいました。中央の塔は、江戸市中に時を知らせた本石町三丁目の「時の鐘」です。


花の東海道⑥日本橋

2021年12月13日 | レモン色の町

巨木の並ぶ街道を、駕籠かきが通ります。作者・年代とも不詳

(長崎大学附属図書館)

歌川広重 東海道53次 の旅立ちは日本橋です。木戸が開けられた早朝、済んだ空の下を大名行列の出立です。左に高札が立ち、その前を棒手振りの魚屋が通ります。日本橋の北詰一帯は魚河岸となっていました。緊張感漂う中で、右側の二匹の犬が雰囲気を和らげています。

明治期になると、多くの外国人が黄金の国日本を訪れました。彼らは記録として多くの写真を残しています。“日本橋”マイケル・モーゼ撮影(横浜開港資料館蔵)『幕末明治日本の風景』山川出版社より

日本橋は、明治6年に改架されますが、それ以前の風景です。橋の向こうに高札の屋根が見えますが、なんとなくごみごみしていて雑然とした雰囲気です。

明治33年の日本橋南詰からの風景。明治20年に創立された東京火災保険㈱の建物が建ちます。

(放送大学附属図書館)

明治期の撮影。正面が西堀留川河口に架かる荒布橋。左から右へ流れるのが日本橋川。左に江戸橋が見えますが、明治8年には石橋に架け換えられます。川沿いに倉庫群が建ち並び壮観です。

※ 追って当時の地図を掲載します

 

 

 

 


花の東海道⑤ 杖の話

2021年12月12日 | レモン色の町

広重の“東海道53次”では、杖を持って旅する人の姿が目立ちます。どれくらいの人が持っていたのでしょうか。“東海道名所図会”(1797)“伊勢参宮名所図会”(1797)“江戸名所図会”(1834)などを参考にすると、男性は約3割程度の人が杖を持っています。歩行の補助という意味合いだけでなく、四国八十八カ所巡礼の際の『遍路杖』や西国三十三カ所の『巡礼杖』、また遊里に出かける場合のアクセサリーとして携帯される場合もありました。男性に比べると女性の携帯率は6〜7割にもなります。この場合もまた、お洒落として機能している場合がありました。

東海道53次 鳴海 有松絞 名古屋市熱田区  手前の女性は眉をおとしているので 後ろの娘の母親かも知れません

ではどうやって旅人は杖を手に入れたのでしょう。近世後期になると東海道は整備され、旅人は旅先で物が買えるようになりました。文化7年(1810)鍛冶屋村(神奈川県湯河原町)からお伊勢参りをした農民男性の旅日記に『松坂宿で50文、杖代』と記録が残っています。しかし、どこで売られていたかは分かりません。店で売られていたのか、売り子から買ったのか、宿で調達したのでしょうか。ひょっとすると耐久力が長い杖は、旅中で買い求める必要があまりなかったのかもしれません。現代では考えられないほどの旅人が杖を使っていますが、歩行が基本でしたから、持つ人は多かったのでしょう。

二川 猿ケ馬場(豊橋市) 三人の瞽女(ごぜ)の行く先には茶店があります 白須賀宿の西にある猿ケ馬場では“かしわ餅”が有名でした

駕籠かきも杖を持っています。アメリカの人類学者スタールは、大正4年の箱根での体験を記録しています。

十返舎一九著「善光寺参詣草津道中」より

「前と後ろの駕籠屋は対角線になっており、蟹の歩くように45度の角度で横に歩くように進む。また、私はこの時ほど息杖(駕籠かきの持つ杖のこと)の用途の万能なる物を見たことが無い。駕籠屋は一歩一歩、息杖を地に突き立て、行く。別に息杖に重みがかかっていくらしく思われぬ。面白いことに前後に振られるのではなく、むしろ左右に、脚下から肩のあたりまで半円形に振られるのである。それに合わせて駕籠屋の逞しい両脚は、撚?(よ)れつ 絡(もつ)れつ するように進む。」

“三島 朝霧” 早朝、箱根越えに向かう旅人 三島明神前の風景です

スタールの異文化からの眼差しでは、駕籠かきのスタイルが珍妙に見えたでしょう。しかし、これが長年の体験から編み出されたベストな方法だったのでした。


花の東海道④草履(ぞうり)の話

2021年12月11日 | レモン色の町

江戸時代、東海道を歩く旅人は1日平均30キロメートルを歩きました。この時履く“わらじ”は、藁で編んだ板に足を縄で括り付けるようなものですから、スリ傷は当然だったでしょう。

“草鞋(わらじ)”の履き方です。

わらじの履き方 ㈱くまがい (la9.jp)

作り方も紹介されていました。

わらじをあんで、はいてみよう|工作|自由研究プロジェクト|学研キッズネット (gakken.co.jp)

旅のガイドブック「旅行用心集」では「旅の序盤は草履の加減を確かめながら少しずつ歩くべきだ。3~4里歩いて不具合が生じたら、一旦脱いで初めから結びなおす。それでだめならより良いわらじに変えよ」と書いています。足になじまない草鞋を履き続けると“草鞋食い”(草鞋の緒で足の皮がすりむけること)になります。“東海道中膝栗毛”の中では「はきつけぬ草鞋で、コレ見や。あしぢゆうが豆だらけになった。わらじのひもがけへこんだのだ」とあります。

広重“東海道53次”より“吉原(静岡県富士宮市)”

こうした危険を回避するために、ツュンベリーは「足の甲がこの紐で擦れないよう、その上にリンネルの布が巻かれているものもある」と記しています。

馬も草鞋を履いています

東海道を旅するひとのほとんどが草鞋(わらじ)を履いていましたが、1割ほどが草履(ぞうり)を使用していました。ただその人は、草履と草鞋を交互に履き替えていたようです。なぜ履き替えたのかは、はっきりしません。

草鞋の交換時期は40〜50キロメートルが平均で、天候が悪くぬかるんだ道ではもっと短かったようです。そして、道中何処ででも売られていました。

江戸名所図会より

泊まった宿場や、立ち寄った茶屋などでは軒先に吊るしてあり、馬用の草履もありました。

また“草履売り”がいました。この絵は子供の草履売りで、下の絵は、草履売りの訪問販売です。値段は10文から30文で、当時大工の日当が食事付きで500文ほどでしたから300円〜1000円くらいだったのでしょうか。

ところで、使用済みの草履はどうしたのか?『江戸名所図会』を見ると、街道沿いの木の下に捨てるところがあって、近在の農家が良い肥料になるので回収していました。エコですね。

木の下に使用済みの草履が積んであります(江戸名所図会より)

 


花の東海道③ 下駄の話

2021年12月10日 | レモン色の町

明治初期に来日した西洋人は、日本人の多くが音を立てて歩くと記録に残しています。ツュンペリー氏は「草履にはかかとの部分がないので、歩くとスリッパのようにパタパタと音がする」。またスミス氏は「履物のかかとは留めていないので、石の歩道を歩くとき履物が上ったり、下ったりし、通りの人ごみの中を進むとき絶えずやかましい音を立てる」と書いています。

また小泉八雲(ハーン)氏は「日本の下駄は、それを履いて歩くと、左右わずかに違った音がする。片一方がクリンといえば、もう一方がクランと鳴る。だからその足音は、微妙に異なる二調子のこだまとなって響く。駅のあたりの舗装された道などでは、ことのほかよく響く。」さすがハーン氏、情緒があります。そして「日本人は、誰もみな、足のつま先で歩く。その足を前に踏み出す時には、必ずつま先から先に着く。これはむりもないことで、日本の下駄だと、かかとが下駄にも地面にもつかず、その上下駄の台が楔型をしているので、どうしても足が前のめりになるから、これ以外の動き方はない訳だ」と。つま先歩行は、履物に由来している。草履や下駄の鼻緒は、つっかけるようにして履くことで固定されます。

日本人の前傾姿勢での歩行も注目された特徴です。ゴンチャロフ氏は「日本人がまっすぐな姿勢で歩いたり、あるいは立ったりするのを一度も見かけなかった。必ず体を前にかがめて・・・」と記しています。つま先歩行と前傾姿勢は関連しているようです。

広重が描いた夕刻の“戸塚”宿。男がひらりと馬から降りる瞬間です。旅籠の女性がそれを迎えます。“こめや”の看板は実在した旅籠です。軒には歓迎の“○○講中”と書かれたが並びます。

旅籠の女性は下駄を履いていますね。客と馬は“わらじ”姿です。

五十三次を見ていると、旅姿が多いだけあって“わらじ”が殆どを占めています。  つづく


花の東海道② ナンバ走り 其の二

2021年12月08日 | レモン色の町

2006年3月17日のブログにも、“ナンバ走り”のことは書いていました。下総人さんに発見いただきました。感謝です。

走る! - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

この時初めて総務部長さんに“ナンバ走り”のことを教えていただきました。幕末から明治初期になり、初めて行進の仕方を学んだ日本人。当時は無理やり教え込まされて困惑した人も多かったことと想像できます。

広重の東海道53次から“宮(熱田神事)”の絵です。5月5日は「端午の走り馬」に神事が開かれ、各村々から荒薦を巻いた馬を走らせて熱田神宮に奉納されました。有松絞りの半纏を着た男たちが“俄馬(にわかうま)”と一緒に駆け抜けます。

この時の先頭の男ですが、体の右側全体に力が入っているようです。右腕を出すと脚はどっちかな?なんて意識しなかったんだと思います。自然体です。

下の写真は“勧進帳”の一場面です。

左が武蔵坊弁慶(松本幸四郎)。“摺り足”で富樫(中村吉右衛門)に寄ります。そういえば鬼平の吉右衛門さんは先日お亡くなりになられましたね。右側の富樫は正装しています。長い袴は、忠臣蔵でもおなじみで、これは儀式の際に暴走を防ぐためだったのでしょうか。“走る”行為とは無縁の世界でした。

そう意識して山田洋次監督の“たそがれ清兵衛”を観ました。真田広之の清兵衛が、下男の神戸浩を連れ立って家に帰るところで、少し手が振れていました。足の動きとは反対の方向に・・・。沁みついた習性は出てしまいます。実際は、手足を同時に出して歩いたか?・・・それは無かったと思います。

ここまでくると、手足を逆に動かす方が不自然に思えてきました。あ、音を立てて歩く話を忘れていました。 つづく


花の東海道①ナンバ走り 其の一

2021年12月07日 | レモン色の町

江戸末期から明治初年にかけて来日した外国人は、日本人が奇妙な歩き方をしていたと話しています。“ナンバ”歩行?について、演劇評論家の武智鉄二氏は、このように述べています。

「歩く江戸の旅人たち」谷釜壽徳氏著

「日本民族のような純粋な農耕民族(牧畜を兼ねていない)の労働は、つねに単え身でなされるから、したがってその歩行の時にもその基本姿勢(生産の身ぶり)を崩さず、右足が前へ出るときには、右肩が前へ出、極端に言えば右半身全部が前へ出るのである。農民は本来手を振らない。手を振ること自体無駄なエネルギーのロスであるし、また手を振って反動を利用する必要が、農耕生産には無い。」

歴史家の多田道太郎氏も、“能楽”の“すり足”で武智氏の意見に賛同しています。また、民俗学者の高取正男氏も「半身のかまえは、われわれ日本人にとって、本来はもっとも自然で、基本的な働く姿勢であった。」

私達が江戸時代へタイムスリップしたら、奇妙な世界が展開していたかもしれません。

旅人の基本的な装い「伊勢参宮名所図会」より

人類学者の野村雅一氏曰く「日本の民衆の伝統姿勢(この場合、主として明治期まで人口の大多数を占めていた農民を問題にしている)は、腰をかがめ、あごをつきだし、四肢がおりまがった姿であった。歩く時もひざは曲がったままであり、腕の反動も利用することはない。なまじ腕を振って歩くように言うと、右腕と右脚、左腕と左脚というように、左右の手と足をそろえて突き出す。いわゆる『ナンバ』式で歩き出すのである。」

当時の西洋人は、日本人が「足を引きずって歩く」と指摘しています。女性は“すり足”で歩き、男性は“足を前方に押し出している”と。こうした“引きずり足”の歩行を、武智氏は、農民の歩行を「ぞろぞろと足を引きずりながら歩いたものだったに違いない。」と断言しています。また、日本人は音を立てて歩くとも指摘しています。 つづく


四日市漫歩マップ 番外 寛文年間地図

2021年12月06日 | レモン色の町

寛文年間の地図です 寛文年間(1661〜1673)は、江戸時代の比較的初期にあたります。

札ノ辻を中心に、北町 南町 西町 竪町と市場が立って町が形成されていった様子がよく分かります。ここから東へ、湊へ向かって市街地が形成されていきました。四日市は、東海道と港を結ぶ湊浜筋の交差点を中心に発展してきました。湊浜筋の1本南(左)の道(上新町・下新町・亀屋町)は後に南浜往還と呼ばれました。現在の地図と比べてください。四日市市都市計画部さんの1万分の1の地図です。


四日市漫歩マップ 番外 陣屋②

2021年12月04日 | レモン色の町

四日市は一時期 大和郡山藩統治時代を除き天領(幕府直轄)でした。

ここに陣屋の平面図が2枚あります。1枚目ですが、敷地は東西44間(約80メートル)、南北46間(約84メートル)のほぼ正方形です。周囲の堀は、広いところで24メートル、狭いところは9メートルあります。竪町通り(南側)に面して矢来門(黒門)が建ち、堀を渡ると四角い空き地になっていて(桝形)兵を待機させるところです。お城の造りのようですね。ここに長さ7間(約13メートル)の土手が右手より突き出ていて、この上に守りの兵が立ちます。

北側の裏門には板橋が架かっていて、戦の時は、橋をはずせるようになっていました。

表門を入ると左右二棟の建物があり、左の長屋風の細長い建物は、手代、手付より身分の低い使用人の住宅と思われます。右の大きな建物は、白洲や立派な玄関がある政務を執るところでした。中央に松の木が描かれていますが、天正10年(1582)本能寺の変の際、徳川家康が三河へ逃げる際に、馬を繋いだとされる“神祖御駒繁松”と考えられます。もう1枚の絵図は、建物が多くみられますが、陣屋の計画図ではないだろうか?の説もあります。

陣屋は、明治時代になって、渡会県支所、安濃津県支所を経て三重県庁となりました。稲葉三鵜衛門翁が、何度か嘆願に来庁しています。しかし、明治9年の伊勢暴動(農民一揆)の際にすべて焼失しました。現在は中部西小学校となっています。


四日市漫歩マップ 番外 陣屋

2021年12月01日 | レモン色の町

享保年間(1716〜35)

札ノ辻の北東位置に陣屋があった。幕府の出張所であります。

水谷百碩画による “御陣屋裏門之秋景”

現在の中部西小学校(中央小学校)の敷地にあった代官所(幕府の出張所)の裏門からの眺めです(明治初年頃)。建物の向こうに一際色濃く描かれているのは御駒繋ぎの松と呼ばれ、徳川家康が自分の馬を繋いだという由緒ある松です。残念ながら陣屋は明治9(1876)年の伊勢暴動により焼失し、御駒繋ぎの松もその時の熱風により枯死してしまいました。

御陣屋絵図 左正門が南

画素が荒いので文字が読み取れません。原図を探します。

お詫びのしるしにお正月料理についてのブログを見つけました。

2015年12月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)