花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

No.55市井からの眺め 閑話休題

2020年05月19日 | レモン色の町

四日市駅西側の合同駅の図面を 椙山先生が書いて見えました。再掲載です

下が西です 駅舎真ん中の給水塔が後々まで残っていたそうです

平成元年11月発刊の『旧四日市を語る』の巻頭に、岡野繁松先生が四日市駅のことを記してみえた。これも再掲載です。

四日市驛は、濱田(四ツ谷)にあり、当時は関西線の東駅と西駅があった。東駅は明治23年に関西鉄道の駅として開設されただけあって古い建物でだだっ広い感じであった。

昔から貨物輸送が多かったためか貨物駅とも呼ばれていて、合同運送の事務所が駅前にあった。駅舎に入ると右に切符売り場、正面が改札口になっていた。駅舎の南(正面)の庇の下が通路になっていて、そこを通って左(南)に折れ陸橋への階段を上った。陸橋を渡ってプラットホームへ下りた。駅舎の西側には交番があった。東側には運河が入り込んでいた。関西橋が名残りである。この南側辺りは大正13年まで関西鉄道四日市工場の跡地のようであった。

東駅

 西駅は、省線(明治40年国有鉄道となる)の関西線になってから、大正11年に四ツ谷町に開設された。外壁は白亜、スレートぶき屋根の西駅舎は、東駅の古さに比べるとスマートであった。駅舎は東駅と同じように北向きで前には広場があった。右側には売店と便所があり、左には欧風を思わせる桟の多い電話ボックスがあった。中に入ると両側は待合室になっていて、天井にはプロペラ型の扇風機が吊るしてあり木製の長椅子がいくつかあった。右側は切符売り場、左は小荷物の受け渡し窓口で大きなはかりが置いてあった。正面が改札口で、右は参宮急行(電車)、左は関西線(汽車)で、汽車に乗るには、東側の階段を上がって陸橋を渡りプラットホームへ下りた。陸橋を渡るとき汽車の煙で咽んだりした。出口専用の改札口が駅舎の東側にあり、待合室の東寄りの窓から見ていると降りて来る客がよく分かり、迎えに行った時には此処で待った。電車に乗るときは複線になっていたので、線路をまたがなければならなかった。

西駅

西駅前 昭和11年

 駅員が転轍(分岐)している様子がよく見えたし、阿瀬知川の南側(昌栄町)にあった操作場で機関車の向きを変えていたのを飽きずに見ていたことを思い出す。

鉄道ビクトリアルH.20より

午起に夏季の間だけ臨時停車駅ができた(午起海水浴場)。

夜汽車の汽笛が当時は家にまで(八幡町)よく聞こえた。哀愁を帯びた音であった。おそらくその頃は、さえぎる大きな建物が少なかったからではないだろうか。

コメント
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