昭和33年3月8日。駅前のボンネットバスを降りた人々は、小雨の中を駅へ走る。その横に番傘をさして歩く婦人。スチールヂーゼルと塚本病院の看板が立つ。バス停前には東洋電機やヤンマーディゼルの建物が並ぶのは、昭和27年3月25日から1か月間、中央通りで開催された講和記念四日市大博覧会(通称 農機具博)による影響だろうか。講和記念大博覧会は戦後、中央通り(70メーター道路)をステージに開催された。
同33年7月20日、ご婦人二人が駅前バス停に立つ写真。バックには、スワランドリーと富士電機洗濯機・富士モートルの看板を掲げた東洋電機?が建っている。ひだりのご婦人のそばには女の子二人が寄り添っている。向けられたカメラに恥ずかしがっているのか?半世紀以上の古さを感じさせない写真っだ。
昭和43年のゼンリンマップ
処で、中央通りは何時、何のために造られたのか?高齢の知人に尋ねると、戦時中、空襲による防火対策上、区画整備が行われたとおっしゃる。その証拠に、焼け野原となった諏訪地区に対して、70メーター道路を隔てた南側の浜田地区は火災を免れた。一方、「旧四日市を語る 第10集 P27」には、昭和20年6月の空襲で出た瓦礫は第1小学校(中部西小学校)の校庭に山積みされ、それが中央通りの埋め立てに使われたとも・・・真実や如何に?
※博物館2階で、四日市空襲直後の写真をボーっと見た記憶があるが、そこに70メーター道路が映っていたか?否か?どうでもよい謎は深まるばかりで・・・楽しい。
追記:今、Webで、空襲前と後の空撮写真を見つけた。戦後の区画整理で中央道路が出来た。つづく!