花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

桂文治・桂文我の落語会

2018年10月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

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マッサマンカレーうどん

2018年10月09日 | おいらの商店街

すわまえ食堂の岡もっちゃんが、五島うどんでマッサマンカレーを作るという。カレー粉はあるの?と尋ねると、自信ありげに「アリマス」と返事が来た。10月は休みが多く、貴重なランチタイムとなりそうデス!

マッサマンカレーが食べられる日 10月11日(水)・12日(木)・15日(月)・16日(火)・17日(水)・18日(木)・23日(火)・30日(火)・31日(水)

営業時間 11:30~14:00・17:00~22:00

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四日市祭り 2

2018年10月07日 | レモン色の町

「旧四日市を語る会」岡野繁松編集 第1集より 四日市祭り

 2学期になると、諏訪さんの祭りの事で頭がいっぱいであった。遠くからやってくる親類の者に会えること、小遣いが貰えること、学校が休みになること、いつもは食べられない寿司などのご馳走が食べられること、いい着物が着られること等などである。しかし、それまでには家の掃除、片づけを手伝わなければならないことである。そのひとつに、障子、れんじ洗いがあった。

 障子、れんじなどを家族総出で三滝川へ運ぶ。川に中にしばらくつけて紙のふやけるのを待って洗い出す。亀の子たわしに磨き砂をつけてごしごしと洗う。力を入れすぎると障子の桟が折れるのでやかましく注意をされた。子供はざっとした洗い方なので大人がそのあとを洗いなおしていた。

 洗い終わると川原で乾かす。この時になると子供は俄然元気が出てきて川の中へ。親も濡れてしまっている服にとやかく言わなかった。乾くまでのひと時、川原に腰を下ろしてのひと時一家団欒の光景があちこちに見られた。

 揚げ寿司、巻き寿司、押し寿司(箱寿司)握り寿司等を造った。練のある町内では、いろいろな稽古を早くからしていた。おはやしの音に力が入ってくると祭りが近づいた印であった。高くて大きな観音開きの戸が開かれて、練りの屋台が出され、飾り付けがされて祭りを待った。

 9月25日は各小学校とも全児童が引率されて諏訪神社へ参拝に行きあとは放課となった。子供は晴れ着に着かえ諏訪さんへ出かけた。練りを持つ町の者は法被に着替えて町練りに参加した。旦那衆や商家ではれんじを外し、表座敷には赤毛氈を敷き、生花をいけ、金屏風を立てて酒肴を振舞った。太い竹で組んだものを置いたりもした。練りに祝儀を渡すと木札が立てられ、練りがその前で演技を披露した。

 諏訪神社の本殿前には、氏子の町の提灯が挙げられた。境内には多くの露店商が並び、公園には露店商、屋台、見世物、遊戯店があった。サーカス、ろくろく首、覗き、綿菓子、ういろう、みたらしだんご、ラムネなどの飲食、玩具、手芸品、学用品、射的、輪投げ等の店が並ぶ。ういろう屋は今年もここというように大体同じ場所に張っていた。また、新道などの町筋にも多くの露店商が店を張っていた。香具師の口上は分からなかったのに面白く聞いた。

 大名行列には頼朝さんが馬に乗っていた。この頼朝さんに触ったり抱いたりすると、出世するというので姐さん連中は競って抱いたりした。北町清繁の姐さん連は、熱心に抱いたりしていた。南町にある森看護婦会の前の空き地には祭りの救護所が設けられた。

 諏訪神社に入るとすぐ左側に二台の大山車の姿が目に浮かぶ。新田、浜田の大山車ではなかったか。高さが四間以上もあり、仰向いてもまだ上が見えないので、ずっと後ろへさがり背伸びをして眺めたものだった。大きすぎて町の中を曳くことが出来なかったので飾ってあるのだと聞いていた。

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四日市祭り

2018年10月06日 | レモン色の町

目で見る郷土史 四日市のあゆみ 市制80周年記念刊行 より

椙山満監修 四日市の100年より

四日市祭りは諏訪神社例祭の余興として行われたもので、戦前北町にあった大山車には、330年前に山車が存在していたという記録があった。明治以前は毎年7月27日、維新の改暦後は8月28日となったが明治12年に疫病が流行したため以後9月27日となった。維新前は26日、ご陣屋前に練り物が勢ぞろいして順次演技を披露、維新後はこれが町練りとなり、28日は諏訪神社の社頭で神事にのっとり厳かに、そして絢爛豪華に演技を奉納、全部の練り物が帰町するのは深夜になったという。しかも帰途は帰り山車と言って練り物が変装するのでそれを見ようとする人たちで夜おそくまでにぎわったという。

椙山満監修 四日市の100年より

 また、祭礼が近づくと全戸が格子戸を洗い、祭礼当日は戸毎に竹簾を垂れ、提灯を掲げ、商店や大家では表を開放して赤毛氈(もうせん)を敷きつめ、造り物や生花、金屏風を巡らして酒肴を振舞うなど祭礼気分に浸ったのである。

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大津視察外伝 御所

2018年10月06日 | 四日市商店連合会です

天皇の即位式は、高御座という八角形?の幕の下で行われる。確かに御所にあるということを聞いたので、次回の即位式はここであるのでしょうか?と尋ねると、高御座は、東京へ運ばれるということ。今上(平成)天皇の即位の礼の際にも、自衛隊のヘリで隠密裏に輸送されたということだった。

長州、薩摩の過激集団が、天皇を担いで明治維新を起こしたという説を展開する原田伊織著「明治維新という過ち」がベストセラーになり文庫化されている。今まだ読破してないので、感想は避けるが、御所についての記述があった。

 

天皇の住まい=御所の佇まいは、観光名所として直接目にした人も多い事だろう。一つの永い歴史を持つ民族の最高権力者の住まいである。

 それにしては、その塀の低さはどうしたことかと気づいた人もまた多い事であろう。余りにも無防備である。こういう例は、恐らく我が国以外にはあるまい。都の庶民にとって、天子様とは文字通り「お天道様」のような崇高な存在ではあるが、決して権力者ではなかった。自分たちが神仏の加護を得て平穏に生きていられるのも、神々との懸け橋であられる天子様がそこにおられてこその話なのだ。この国にとってもともと天皇とは、そういう存在である。これを侵すものがどこにいようか。したがって、高い塀も、城壁のような防御施設も御所には要らないのである。

 天皇自らが、討幕そして維新を指図したかといえば、NOであると書いてあります。面白そうなので、もう少し頑張って読んでみます。

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