花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

誓の御柱と市民壇はセットだった

2018年06月08日 | レモン色の町

早速回答のコメントをいただきました。T様、ありがとうございました。改めてここに記載いたします。

誓の御柱建設の趣意案からの抜粋
皇國の彌榮と建國の精神とは斯くして相離るヽことが出來ぬ(簡略)
御柱のことであるから外観は素朴であろうが、一切の人々の彌榮の淸明心の結晶に外ならぬ。有ゆる人々の皇國精神が各人を超越して外面に表はれ、お互いと對立しつつあるものとなる。此の精神こそ高天原に於て、八百萬神がお唱へになったと申し傳へられて居る「天つ晴れ、あな面白、あな手伸、あな明け、おけ」といふ言葉により簡單に表はされ得るものである。
とあります。調べる中で自分は、なんとなく触れてはならないような、恐れ多いもののような気がいたしておりました。それにしても意味不明な呪文のような言葉です。

昨日、南部丘陵公園にある市民壇を見に出かけました。雨上がりの朝、歩く方もちらほら。高台の見晴らしの良いところに市民壇はたっていました。

提供:本町のみずたに氏

完成は昭和9年3月吉日、当市 村山清八とあります。当時市議会議員だった村山氏が中心となって四日市市のために造ったものらしく、誓の御柱とセットで完成させたようです。四日市市のマークが真ん中に見えます。

 

日露戦争における石炭産業で莫大な利益を得た村山氏は、四日市に恩返しをするべく巨費を投じて誓の御柱と市民壇を寄贈する。大義名分のためにはまず、市議会議員となることが必定。そこで目的達成のために、一期だけ選挙に打って出た。というのはわたくしの邪推でしょうか?邪推でしょうね


タモッちゃんに叱られる!

2018年06月06日 | レモン色の町

 

天気が良かった日に、石山(誓の御柱)に上ってみた。御幼少の頃はよく遊んだものだが、今上がってみると、檀上は意外に狭く、斜めになっているのでめまいがしそうだ。慶応4年(明治元年)新政府は5か条からなる国家の基本方針を国中に公布した。廣く會議を興し・・・は有名な文だ。

本町のみずたにさん提供

塔の台座には昭和9年3月吉日、村山清八謹建之とある。村山清八は伊勢市(旧宇治山田市)出身で、村山石炭株式会社の代表を務め、昭和7年10月11日~昭和11年10月10日までの4年間、四日市市議会議員の職を兼ねた実業家だ。(北野 保著 続よっかいち歴史浪漫紀行より)村山氏は、議員在籍の内に造っておきたかったのだろう。

ところが、台座の周りに奇妙な文句が刻んである。

 

あな 明け おけ???    ナンジャ?コリャ?

本町のみずたにさんに聞いても分からない。こうなったら北野 保氏御大に聞くしかないと連絡したところ、「続 よっかいち歴史浪漫紀行」に書きましたとの返事。シマッタ!持っていながら読んでなかった。平身低頭で電話を切ったが、文句の意味は依然不明である。こうなっては恥も外聞もありません。どなたか知りませんか?

あな手押し は間違いで  正確には  あな手伸し でした。


保光苑から諏訪公園へ

2018年06月05日 | レモン色の町

これは享保時代の地図です。宿場の辻から東海道が左へ伸びていて、左上に諏訪神社の森が描かれている。

東海道分間延絵図を見ると、右下にいわゆる黒門が立っていて、四日市宿の出口(入口?)になっている。諏訪神社は宿場の外だった。そして、神社の西(裏)には何も描かれていない。何にもなかった。

「旧四日市をかたる会」で岡野繁松先生が描かれた、戦前の諏訪公園の様子を掲載させていただく。

本町のみずたにさんは、まちなか博物館を開いてみえて、貴重な絵葉書をお持ちである。

これもその1枚。右から左へ、熊澤図書館、誓の御柱(石山)、市民壇と並ぶ。すっかり整備されているから昭和になってからである。カラー写真であるのが珍しい。

文化展覧会記念として諏訪公園の中の建物が写されている1枚。私は熊沢館の裏に建つ旧図書館(児童館)ではないかと勝手に想像する。違っていたらご指摘いただきたい。

そしてみずたにさん所蔵の絵ハガキの中から、完成当時の誓の御柱(五か条のご誓文)と市民壇の完成記念写真が出てきた。

 


日露戦争と諏訪公園

2018年06月03日 | レモン色の町

保光苑から諏訪公園へ

日露戦争(明治37~38年)の記念として、明治39年の春、諏訪神社境内(神社所有の庭園)に設けられた公園で、はじめ保光苑と名付けた。そは平和克服の詔勅に「能く国家の光策を無彊(むきょう)に保ち」とあるに因みて名づけられた。

当初は面積1206坪を有し諏訪神社所属の公園であったが、明治41年4月1日市有に変更した。かくて大正3年11月、142坪を拡張し、次に御大典事業(大正天皇の御大典事業か?)として、大正4年8月263坪、同年12月1355坪を拡張し、大正5年1月諏訪公園と改称した。園内に市立図書館(昭和3年起工・昭和4年完成)、演武場(後の四日市幼稚園)及び小動物園がある。(四日市史 昭和5年版より)

皇紀2588年の文字(昭和4年)

市立図書館(現在のこども交流館)は、河原田の実業家 熊澤一衛氏が、昭和天皇御大典記念事業として蔵書2000冊と共に寄贈されたものです。壁面はブロック造りの印象でしたが、スクラッチタイル張りということ、1階は事務室、閲覧室、書庫、談話室を、2階は講堂になっていました。(戦後は、1階児童図書室、2階が一般閲覧室、北側へ通路を渡ったところに、木造2階の学習室がありました)

緑が入っていい雰囲気です

昭和20年6月の四日市空襲で木造2階建ての旧館(??ということは熊澤氏の建てた図書館より以前に、北側に旧館があったということか??)灰燼と化し、残った熊澤館は一時、戦災負傷者などを収容する病院(仮の市立病院)になりました。昭和24年、再開された図書館は、街の真ん中で昭和48年まで運営されることになるのです。(北野 保氏著 よっかいち歴史浪漫紀行より)

2階の児童館は当初講堂でした。

平成15年、国の登録有形文化財となった熊沢館は改修工事の後「こども交流館」として生まれ変わりました。