花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

山中貞雄という監督

2017年06月16日 | 諏訪商店街振興組合のこと

本日【丹下左膳余話 百万両の壷】上映です。5時30分より スワセントラルパーキング2階会議室 入場無料 感無量?

山中貞雄監督は、明治42年11月8日 京都市東山区 扇子職人の家に生まれました。

少年期より「カツキチ」と呼ばれる大の映画好でした。

昭和2年 マキノ撮影所へ入社 昭和3年 嵐寛十郎プロダクションに移籍しました。

その年の夏 嵐プロダクションは、スポンサーに逃げられ、山中はプロマイドを売るなどして資金稼ぎに奔走しますが その年の年末、寛プロ解散します。

年末に、山中は「人間とも思えぬ形相」で実家に帰り 兄弟から映画をあきらめるよう説得されるが聞きませんでした。

昭和4年 2月 脚本家でデビュー 

     3月 嵐寛十郎が東亜キネマで映画復帰 山中もチーフ助監督として参加します

        脚本家「鞍馬天狗 前後編」としても活躍

                            日本映画界の巨匠と評価されるに至りました。

昭和7年 「むっつり右衛門」シリーズの脚本でアラカンに評価される

                            「磯の源太 抱き寝の長脇差」で初監督します。

                            第二次寛プロから 日活京都撮影所 へ移籍  若き天才監督の名声をほしいままにします

昭和9年 シナリオ集団「鳴滝組」を結成

                         ここで伊藤大輔、伊丹万作、小津安二郎、清水宏 等と交流することになります。

昭和12年 東京 PCL映画製作所(現 東宝スタジオ)で「人情紙風船」を撮りますが

                            封切り当日召集令状が届き、中国へ出兵しました。

昭和13年9月17日  中国河南省の野戦病院で 赤痢の為戦病死、享年28歳の若さでした

河内山宗俊 真ん中が原節子